荒屋山伏法印神楽の権現舞奉納
さて本日は、江釣子神社春季例祭の火伏祭から御神幸と神楽です。
昨日記事で後免町鬼剣舞が奉納している後半で、神楽の笛鉦太鼓が聞こえてきました。
幟を先頭に江釣子神社のお神輿の巡行です。
江釣子神社の御由緒について
「嘉禄元年(1225)下江釣子に安妻宮禰誼の五郎という者(藤原五郎基常)がいた。彼の一子六郎は長く病に患って回復の様子がみえなかった。 ある夜「長瀬の渡船場西(鑓水の小屋板)で釣りをすれば病も治る」という霊夢があった。五郎はそれに従い和賀川で釣りをしたが何も釣れなかった。突然、河中が振動し光明が見えたので釣り糸を引き上げると、赤銅の観音像が針についていた。
五郎は、それを持ち帰り仮宮を造り祀った。間もなく六郎の病も全快した。
これを聞いた領主の和賀式部大夫忠明は、すぐに堂を建立し、江瀬釣光大明神として祀り、和賀家の御祈願所と定めた。また五郎には江釣子の姓を与えた。その後、十一代江釣子民部の時、岩崎城の戦いがあり堂も消失した。
宝暦2年(1752)社殿を再興し江釣子大明神として祀られ現在に至っている。」(岩手県神道青年会HPより)
なかなか面白い発祥譚です。それで江釣子という地名になったのでしょうか。
さて、その江釣子神社の祭礼に奉納しているのが荒屋山伏法印神楽です。
由来は次のとおり
「三月田山伏神楽の継承者であった高橋嘉蔵から藤田九兵エ・藤田定助・藤田浅之助・小笠原政衛門の4名が神楽の指導を受け、更に昭和5年(1930)に当地区へ養子に入った菊池梅蔵が加わり荒屋神楽として活動を開始しました。この年から江釣子神社火防祭に参加。
以来今日まで春の火防祭、秋の神幸祭に参加しています。
昭和61年(1986)、神楽の旗を作成するにあたり江釣子神社の江釣子秀保宮司から荒屋法印神楽と命名していただき、現在に至っています。」(えづりこ散策マップHPより)
春先の火伏祭には様々な信仰習俗が伝承されていますが、ここ北上地方では華やかな山車とともに、火伏祈祷の神事や民俗芸能が多く残されています。
ただ単にパフォーマンス的な舞や踊り等ではなくて、本来の切実な祈りや願いが込められた地域ぐるみの祭礼習俗といえます。
ここでも段々参加地区が減少していると聞きました。
長く継承されていくことを望みます。
動画でどうぞ。
