原体剣舞 「太刀入り剣舞」
さて本日は、江刺民俗芸能フェスティバルから原体剣舞で太刀入り剣舞です。
その前に原体剣舞の由来について当日パンフレットより
「原体剣舞は、慶応元年(1865年)に岩谷堂の増沢剣舞から伝えられた稚児剣舞です。
縁起によると、奥州平泉初代の藤原清衡が豊田館(江刺区岩谷堂)に在ったとき、清原家衡の襲撃を受けて一族郎党皆殺しとなったときの怨霊供養のため始められたとも伝えられています。清衡の亡き妻と子の供養のため、女子と稚児の演ずる剣舞となったものといわれております。
昭和43年頃に原体地区民全員で保存伝承を支援するために後援会を結成し、昭和48年頃に名称を原体剣舞保存会に改め、原体地区の小学生が伝承活動を行い現在に至っています。現在の踊リメンバーは、少子化が進みつつも、小学2年生から6年生までの
13人で構成し、練習中の1年生が3人となっています。※本日の公演には、中学生も出演しています
大正6年(1918年)8月、江刺を訪れた宮沢賢治がこの剣舞を鑑賞し、長編の詩「原体剣舞連」を残していることで知られています。
昭和48年11月3日に、旧江刺市の無形民俗文化財に指定されています。」
ということです。
江刺の念仏剣舞は門岡系統や衣川からの伝承等が混在しているが、詳細な伝書等がないことより各団体とも出自は定かでないとしている。
しかしながら、原体剣舞は隣接する増沢集落からの伝来とあり、さらに増沢では鹿踊りとともに、文政10年に伊手二渡地の神から伝わったとあります。
(鹿踊と剣舞が共に伝承されということは仙台の鹿踊剣舞が連想されます)
この伊手は鉱山で有名な集落で、幕藩時代には相当な賑わいがあり、金掘技術とともに様々な文化が移入された地域でもある。
玉里の熊野田念仏剣舞の伝書には「江刺郡伊手村漆立屋敷庭元より」伝授されたとあるので、現在では伝承が無くなっている剣舞がここにあったと推察する。
入り込むと直ぐに跳ね人が力強くも厳かに胴をとります。気仙地方の念仏剣舞の胴取もこの派生形と思われる。
演目は、「安剣舞」「卯平剣舞」「太刀入り剣舞」「参入り剣舞」があり、この日は刀舞がはいる太刀入り剣舞です。
舞手は頭に鳥毛采をつけ、右手に扇、左手にメンボウ(金剛杖)を持ち、腰の後ろに鬼面を結わえ付けている。この鬼面は元は顔につけていたということです。
念仏剣舞らしさを際立たせているのは女の子2人がそれぞれ鉦とササラを担当している所です。
江刺の念仏剣舞は、衣川の川西大念仏剣舞のように亡霊済度という観念がなく、念仏によって先祖精霊を慰め、反閇等の所作によって大地を鎮め、ゆきては来る秋の豊作を願う踊りのように思えます。
これは、スンボウ(信坊子)で、サルコの黒面をつけ、右手に唐団扇、左手に杖を持って他の舞手と対峙して踊ります。
太刀入り剣舞は盆の門付け等で礼式として最後に舞うことになっているという。
動画でどうぞ。
