川内神楽「一の谷嫩軍記の舞」
さて本日は、江刺民俗芸能フェスティバル2016から川内神楽で一の谷嫩軍記の舞です。
その前に川内神楽の由来について「瀬台野系神楽口唱歌誌」等より
瀬台野村(現奥州市水沢区)に依拠した山伏法印の日光院清延が創始した瀬台野流神楽から羽田村外浦(現奥州市水沢区羽田)の鶯沢神楽に伝授され、そこから師匠を招いて神楽を伝承したことに始まる。
明治39年、当地の鎮守八幡神社奉納神楽として発祥したのが現在に至る。
尚、明治末期には花巻の彫刻師に依頼して権現頭を新調し、羽田村田茂山の羽黒堂出羽神社より師匠を招いて権現舞を習得し、旧小正月に悪魔祓いと火伏祈祷に門打ちして歩いたということ。
その後、大正ニ年に藤里愛宕下に、大正四年に原体、大正六年に興田市之通に、昭和七年に玉里村和田に広く伝授した。
さらに、本流である瀬台野神楽が中断していたのを、現踊り組が復興する際には、その指導に当たるなど、瀬台野流の重鎮としての位置づけを占めている。
さて、演目の一の谷嫩軍記の舞は、平家方の若武者平敦盛と、源氏方の荒武者熊谷次郎直実との決戦が舞台となる。
一関地方や栗原地方の敦盛像とはかなり趣を異にしているのがおわかりになりるでしょうか。
頭は女采で、身には鎧をまとっています。
そして熊谷次郎直実も、白采に赤い荒方面です。
場面は、源義経の奇計により鵯越の逆落としで平家方の陣を急襲し、平家方が瀬戸内海を船で逃れて屋島に向かうという場面。
無冠の太夫平敦盛は、陣屋に愛蔵の青葉の笛と伝家の巻物を忘れたために戻ったところで熊谷次郎直実に呼び止められる。
敵将の首を取って手柄としたい熊谷次郎直実は、若輩と見ながら平敦盛を組み伏せて見ると、我が子直家によく似たり。
武士の情けと、早や逃れよと沖へ逃します。
そこを平山判官に見咎められ、敵方に二心あらば共に討ち取ってくれようと責め立てられます。
ここで、平山判官は舞台下から呼びかける演出となりますが、生憎照明が追いつかず・・・
断腸の思いで致し方なく再び敦盛を呼び寄せます。
もはや観念した敦盛は、早く首を討たれよと念仏を唱えます。
〽 ハアー 西に向かいて 手を合わせ 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
〽 應 未来は必ず一蓮托生 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
虚しく敦盛の首を討ち取った熊谷次郎直実は、出家の身となり、蓮生坊と名を変えて都へと戻るのでした。
瀬台野神楽では、この後は小敦盛之舞として法童丸の物語の場へとつながります。
動画でどうぞ。
