水戸辺鹿子躍 @けせんのたから
さて、本日は、けせんのたから2016から水戸辺鹿子躍についてです。
その前に、この日の「けせんのたから」では、前段に及川宏幸氏の「宮城岩手の鹿踊」と題した講演と、鹿踊三団体の代表や民俗芸能研究に携わる方々の座談会「鹿踊のこれまでとこれから」が行われました。
及川氏の講演では、気仙地方の鹿踊を概観し、その系譜と特徴をわかりやすく説明がなされた。
気仙地方の鹿踊りは、その系譜から大別して
南三陸町からの直接伝播(小通、前田、坂本沢、笹崎)
大東町大原山口から伝播したもの(戸館、柿内沢、生出、舞出、高瀬 {廃絶 坂本、寒倉})
一関市舞川から伝播したもの(永浜)
江刺から伝授を受けたもの(浦浜)
とがあり、それぞれ地域的に明確に別れているということです。
特にも、南三陸町から直接伝播したものと、大原山口経由のものでは舞の趣や装束に違いがあるなど、源流は同じであるにもかかわらず違いがあり、その伝播された年代の相違によるものなのかどうかは、今後の研究に期待する所である。
さて、座談会の後には実演となりました。
最初は宮城県南三陸町の戸倉地区に伝承される水戸辺鹿子躍で、行山流の祖といわれる団体です。
由来から
「行山流の元祖と言われる伊藤伴内持遠が登米郡の伊達式部に召し使われていた頃、品川様(伊達綱宗)が仙台へ入部した。その際に鹿踊を上覧し「ぎょうさんなる踊り」と褒められ、品川様から九曜星の紋、登米様からは輪違いの紋を拝領し行山鹿子躍と称し、装束にそれらの紋を用いたと有る。」
とあります。 しかしながら、一時期中断したものの、伝承先である一関市の舞川鹿踊から指導を得て平成四年、菩提寺である慈眼寺で躍供養を奉納し、復活の庭揃えとなったものです。
中立と雌鹿
行山流の元祖と言われる伊藤伴内持遠が登米郡の伊達式部に召し使われていた頃、品川様(伊達綱宗)が仙台へ入部した。その際に鹿踊を上覧し「ぎょうさんなる踊り」と褒められ、品川様から九曜星の紋、登米様からは輪違いの紋を拝領し行山鹿子躍と称し、装束にそれらの紋を用いたと有る。
中立の流しと大口
側鹿の流しと大口
昭和57年に水戸辺の高台から鹿踊供養碑が発見された。
碑文には「奉一切有為法躍供養也 亨保九辰年 本吉郡水戸辺村 敬白」とあったという。
その意は、この世に存在するすべてのものに、踊りを供養し奉るということです。
鹿踊の多くは旧暦7月7日に笠揃いとして踊り始め、送り盆の15日ぐらいを踊り納めとしている。
祖霊供養とあらゆる霊位の鎮魂を祈願する芸能という姿がみてとます。
動画でどうぞ。
