達古袋神楽 五條の橋・秀衡二度対面の場 @ 第39回平野神社奉納神楽大会
さて本日は、第39回平野神社奉納神楽大会から達古袋神楽で五條の橋と秀衡二度対面の場です。
その前に、達古袋神楽さんの由来について定本より
「明治二年の火災で記録を失ったので資料はないが伝える所によれば、八幡神社は田村麻呂公の勧請といい、康平五年(一○六二)八月一五日再建の棟札もある。
八幡山常学院は、京都本山派の相模坊が、文明一○年(一四七八)開設し、古くから八幡神社の奉納神楽として法印神楽が舞われて来た。
なお弘化年代(一八四四)に神楽も盛んになり、明治以降には、胆沢地方、宮城県北、栗原郡、玉造郡等にも伝えられた。
明治以前は常学院が宮元となり指導に当ったが、以降の歴代師匠は、明治一一年小野寺伊三郎、明治二○年阿部徳太郎、明治二五年小岩勝蔵、明治三○年小岩利右エ門、小岩彦三郎、大正九年~昭和三八年まで阿部長治、以降阿部孝が指導に当り後継者の養成に当った。」
とあります。現在の代表は小岩恭一さんです。
この日の胴は三浦一さんが取っておられました。
さて、演目は義経ものから2つの場面です。
最初は、牛若丸と弁慶が五條の橋で対決したお馴染みの場面です。
牛若丸です。
弁慶です。
鞍馬山で修行した牛若丸の兵術により弁慶を打ち負かし、ともに平泉に行くなら命を助けてやると言いつける場面。
そして、平泉の藤原秀衡に対面し、源氏再興を目指すならば、平家に奪われた多神通虎の巻を取り返しなさいと助言されます。
牛若丸は単騎で四国熊山城に潜入し、ついに奪還し、奥州平泉へと戻ります。
藤原三代秀衡公です
巻物を秀衡に見せると、秀衡は八十四巻あるべき兵法書が六十二巻しかないことを指摘します。
残る二十二巻はどうしたことかと問われた牛若丸は「後の二十二巻は我鞍馬山にて天狗に術を習った際に、宝刀ともに焼き捨てた」と答えます。
それをいたわしく思った秀衡は、牛若丸出陣に際して佐藤庄司基治の加勢を付けるよう助言します。
この後は軍勢借りの場面となります。
動画でどうぞ。
