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2016.10.15 | Comments(0) | Trackback(0) | カテゴリ神楽

牡鹿神楽故実会 西の宮 @第39回石巻・桃生・牡鹿地方神楽大会

さて本日は、第39回石巻・桃生・牡鹿地方神楽大会から牡鹿神楽故実会で西の宮です。

その前に牡鹿神楽故実会さんの由来について宮城県民俗芸能(1)から

「石巻地域(旧牡鹿郡)には旧藩時代、牡鹿十ヶ院と称する修験院があり、南境の正浄院、大瓜の常善院、高木の光妙院、水沼の文殊院、真野には観殊院と喜明院、沼津に宝性院と賢龍院、根岸の開明院、渡波の常楽院であった。これらの法印たちが相集って各祭礼に際して祭式のあと法印神楽を演舞してきたもので、大正元年に当時稲井村根岸の周明院の津田主税法印によって記された文献によると、この法印神楽は元和3(1617)年あたり、或いは正徳5(1715)年から再興されたものとあるが、その確認はできない。文化文政のころに最も隆盛を極めたのち、明治維新の神仏分離令によって中断したが、明治12年8月に各院によって牡鹿古実会が結成されて法印神楽が再興されたという。
本田安次博土が昭和4年に石巻中学に赴任された翌年の昭和5年は石巻牧山の鷲峰山長禅寺中興の祖片桐栄洋法印250年遠忌に当たり33日間も大祭が続けられ神楽が行われたらしいので、本田氏はこれらと親しく接し感銘を受けられていたと思われ、『陸前浜本編まれる基になった。
明治12年の神楽再興は牧山の零羊崎神社権宮司の桜谷可守師と根岸周明院の津田雄記法印等とで実を挙げられた縁もあったか、それ以来この神楽は牧山の宮司によって代々主導されていたようであるが、大正元年のころは現石巻市内域となった、沼津から2、真野2、渡波l、根岸l、水沼1、闘木l、大瓜l、南境lの10人の法印たち(本山派が多いという)によって伝承されていた。
昭和50年ころは会員が15名ほどいたが、現在は沼雄から6人、渡波から1人、そして桜谷会長と8人となった。戦後生れは2人で
あるので後継者不足は否めない。石巻市湊小学校や沼津小学校等で嗣修を行い、大分上述したと聞いていたが、青年たちの後継者養成が急を要す。」とあります。



さて、演目の西の宮は、法印神楽では一般に蛭児という題名で演ぜられます。
伊弉諾伊弉冊二神の第一子として生まれながら足が不自由だったため高天原から天磐樟船に乗せられ流されてしまった。その後西の宮に行き着いて神様となったのですという物語である。

海から現れた神様なので大漁の守護神として浜の人々の信仰が篤いため、沿岸部の神楽では大同小異で必ず演じられます。

白翁面に烏帽子を付け、釣竿を背負って幕から出て自身の由来を唱える。

DSC00734.jpg

西の宮の祭神である蛭児の神は恵比寿とも呼ばれているので、浜の漁師には大漁成就の神様として崇められているので、磯に出て釣りをする場面になっています。

DSC00737.jpg

陸前浜の法印神楽での蛭児では、釣り糸の先に、獲物の魚を切り紙で表しています。
この切り紙も、神楽団体で様々あるようです。

やっぱり浜の漁師さんにとっては大漁祈願が何よりです。

DSC00739.jpg

動画でどうぞ。

テーマ:伝統芸能 - ジャンル:学問・文化・芸術

2016.10.15 |

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祭・・・それは祈り、畏れ、そして縋り付くばかりの信仰、神人共生の歓びの象徴。さて、明日のエネルギーの糧を求めに彷徨おう。

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