鶯沢神楽 敦盛・玉織姫別れの場1608
さて、本日は鶯沢神楽さんの敦盛、玉織姫別れの場についてです。
その前に、鶯沢神楽さんの由来について定本より
「明治初年、玉井豊之助、小野寺久五郎の両人が世話人となり、岩手県西磐井郡萩荘村達古袋神楽の師匠を招き、神楽の伝授を受け日向神楽を創設した。
戦前、戦後舞方が少なくなり中断していたが昭和三九年、町教育委員会が郷土芸能後継者養成講習会を開催した。講師は小野寺捨男、小野寺東策の両師匠の指導であった。
これを機に鴬沢神楽保存会を組織し現在に至る。
なお、明治一八年、二○年の二回にわたり、伊勢神宮に神楽を奉納したという。
また、大正年間、田谷神楽(江刺市愛宕)の指導をしたともいわれている。
初代庭元玉井豊之助、現在の庭元岸湊は六代目である。」
ということです。現在の代表者は高橋長人さんです。
この日の胴取りは若きホープの正嗣さんです。
さて、演目の敦盛、玉織姫別れの場ですが、冒頭に鶯沢神楽の場合は幕出(雲張り)が掛かります。
〽 センヤーハー 敦盛はホー 西国指して 早や急ぐホー 早や急ぐホー
この後の舞手は御神楽の手を舞いますが、その間の胴取りの神楽歌は物語の情景を「語り物」として太鼓に合わせて歌います。
これを南部神楽では「口説き」と称しておりますが、これが実に演目への感情移入をほだす仕組みになっていると思います。
こんなシステムを作ったのは一体誰なのか? 非常に情緒豊かな芸態だ。
さて、平敦盛は己が落ち度によって大事な青葉の笛を取りに戻ったら若妻玉織姫に会い、今生の別れを告げる。
ところが、若妻玉織姫には七月半の身籠りありと聞かされ、せっかく断ち切ったこの世への未練がいや増すことになってしまう。
そこで敦盛は、我が子に形見を託して戦場へと駆け上る場面です。
玉織姫の神台を語るのは長人会長ですが、明治時代には放浪の浄瑠璃坊主や節談義などを語って歩く芸人が主だったと思います。
村毎に上演されるこの形態では様々な演出が行われていたでしょう!
動画でどうぞ。
