小野小町と昭和レトロな子ども献膳行列と
さて本日は、6月5日に行われていました宮城県大崎市古川の新田地区に鎮座する子松神社の早苗振祭りにお邪魔したました。
事前に神社さんに電話で確認していたものの、行列の次第や御旅所の位置などわからずにおりましたが、なんとか辿り着いたのdが10時過ぎ。もうすでに神官様達が二手に分かれ集落内を一軒一軒祈祷して歩いていました。
で、神社周辺を彷徨いていると、川端に思いもかけない看板が建っています。
「小野小町の墓」と書いてあります。
伝説によれば、「都での華やかな生活も寄る年波には勝てず、晩年故郷の秋田に帰る途中、ここ新田夜烏の里に差しかかったころ、にわかに病に倒れてしまった。草庵を結んで氷室の薬師に100日参りして病気平癒の祈願をかけ、明日が満願成就という日に精根尽き果てて、路傍に倒れそのまま没してしまったそれを見た村人たちは淋しい最期をとげた小町をあわれんで手厚く葬り、墓碑を建立してその菩提を弔った。」という。真偽のほどは今のところさだかではないとしているものの、小野小町の没年も場所も記録がないばかりか、その存在すら謎なので、言ったもの勝ちといえるかもしれない。
しかしながら、江戸時代に和歌をこよなく楽しんでいた地域だということが伺える。
現にこの墓碑の脇にある電話ボックスにも沢山の現代の投句が飾られていた。詩情豊かな風景といえる。
まずは子松神社に参拝です。
ここは延喜式神名帳に記載されている新田郡子松神社であり、明治以前は安永風土記御用書出に、「夜烏『鹿嶋宮』但別当玉造郡新田村山伏自明院」と記載されているとおり鹿島明神であった。
戦前・戦中は武運の神様として出征兵士の参詣祈願が絶えず、お祭りも近郷近在に聞こえた、たいそう賑やかだったという。
終戦直後の3年間は、祭礼行事は中断されていたが、昭和24年春祭に復活、第1回の御膳子行列を行い、十数年は続いた。
その後祭り行事は衰退していたが、昭和50年に「祭典行事保存会」を結成し、それまで5月10日の春祭に行っていた各種の行事を、田植え後の6月第1日曜日にあて、祭の名前を「早苗振祭」と銘打って祭礼行事を復活し、現在に至っているという。
で、子松神社の名前どおり、安産や子どもの守り神としての信仰もあったことから子供たちによる献膳行列が行われるようになった。
当日係の方に伺った所、以前は子どもが沢山いたので、200人位が行列に加わり、手に持つ三宝が足りなくなると、紅白餅も持たされたということだ。
以前は、行列には山車や囃子がついて廻ったということだが、今は担い手が高齢化してできなくなったため、この日は塩竈市のちんどん塩釜CM社が呼ばれて賑やかに囃していました。
チンドン屋と子どもたちの行列。 昭和レトロな雰囲気がたっぷりです。
レトロなタバコ屋鈴木商店の前で神輿行列と合流して、子松神社まで練り歩きます。
ゆったりとした時間が流れるお祭りでした。
場所はここです。
動画でどうぞ。
