達古袋神楽 弁慶安宅の関@第46回岩手県南宮城県北神楽大会
さて本日は、第46回岩手県南宮城県北神楽大会から達古袋神楽さんの弁慶安宅の関についてです。
その前に、達古袋神楽さんの由来について定本より
「明治二年の火災で記録を失ったので資料はないが伝える所によれば、八幡神社は田村麻呂公の勧請といい、康平五年(一○六二)八月一五日再建の棟札もある。
八幡山常学院は、京都本山派の相模坊が、文明一○年(一四七八)開設し、古くから八幡神社の奉納神楽として法印神楽が舞われて来た。
なお弘化年代(一八四四)に神楽も盛んになり、明治以降には、胆沢地方、宮城県北、栗原郡、玉造郡等にも伝えられた。
明治以前は常学院が宮元となり指導に当ったが、以降の歴代師匠は、明治一一年小野寺伊三郎、明治二○年阿部徳太郎、明治二五年小岩勝蔵、明治三○年小岩利右エ門、小岩彦三郎、大正九年~昭和三八年まで阿部長治、以降阿部孝が指導に当り後継者の養成に当った。」
とあります。現在の代表は小岩恭一さんです。
※達古袋神楽さんでは、メンバーの方がブログを書いておられます。この日の様子もUPしていますのでご参照ください。
⇒達古袋神楽ブログ
この日も胴取りは小岩弘征さんです。
さて、演目の安宅の関です。
義経公が弁慶ともども都落ちする場面です。
「誰の讒言か知らねども、兄頼朝に従いて、一ノ谷から壇ノ浦までことごとく戦果をあげたれど、今や追われる身。
これが血を分けし兄弟の仕業かよう~」
義経さんです。
武蔵坊弁慶さんです
山伏姿に身をやつして、北陸路を平泉目指して駆け抜ける義経主従は、安宅の関で関守の富樫左衛門泰家に怪しまれるも、疑いを晴らすため、弁慶機転の東大寺建立の勧進帳を空読みします。
しかしながら、富樫の従者の進言で山伏の合力に判官義経に似た人物がいると聞き、富樫が従者を検分します。
その疑いを晴らすため、弁慶は泣く泣く主公義経を強打します
数々の疑問はあるものの、山伏一行を義経主従と見破った富樫左衛門尉ですが、武士の情けで通すことに気めます。
山伏先達を武蔵坊弁慶と見破りながらも大法師と呼びかける心遣いに神楽の観衆も惜しみない拍手を送ります。
「彼も武士なら我も武士。ここで、判官殿に縄をかけるのは容易けれど、ここが武士の情けのかけどころ」
無事に安宅の関を押し通せたものの、弁慶は主君を打ち据えた非道を悔いて切腹しようとします。
それを義経は押し留め、これまでにも継信忠信兄弟が自分の身代わりとなって矢刀の楯となって命を落とした。
今となっては弁慶しか頼るものは無し。平泉へ着くまでは我に命を預けよという愁嘆の場面です。
動画でどうぞ。
