熊野堂神楽 神招の舞
さて、昨日は宮城県名取市に行って参りました。
ここは東北地方の熊野信仰の中心といえる名取熊野三社の一つで、旧新宮社の熊野神社です。
熊野三社の創建譚は社伝より
「昔、陸奥国の名取の地に一人の巫女がおり、深く熊野権現を信仰し、毎年紀州熊野に参詣していましたが、年老い、参詣できなくなったので付近に小さな熊野三社を建てお参りしていました。その後、紀州熊野権現のお告げにより、旅の山伏が一葉の梛(なぎ)の葉を携え訪れました。この葉には虫が喰ったような跡があり、それをたどると「道遠し年もいつしか老いにけり 思いおこせよ我も忘れじ」という和歌が書いてありました。その和歌を旅の山伏が老女に見せたところ感激し涙を流しました。これまでの老女の信心深い行いからその徳が広がり、保安年間(1120~1124)に今の熊野堂と吉田に熊野三社を勧請しました。」
ということです。
その三社の一つで、境内には文治年間に奥州進軍の帰途に源頼朝が戦勝を祝って植樹し、その後は伊達氏の崇敬を受けるなど仙台一円の信仰を集めていたようです。
ところで、この熊野神社の建立譚に出てくる「名取の老女」は能楽にもなっています。
世阿弥の甥の音阿弥が寛正5年(1464年)に上演した記録があり、明治以降は廃曲となっていました。
それが東日本大震災から5年を迎える平成28年3月に、国立能楽堂において「復興と文化 特別編 老女の祈り」として復活上演されたところです。
復活上演の経緯はこちらを参照してください→http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201510/20151001_15018.html
その老女の願いを叶えたのが熊野山伏ということになっています。
山伏といえば神仏混交ですが、ここの境内に隣接して神宮寺文殊堂が建っています。
そのことに由来すると思われますが、こちらの神楽とともに舞楽の手にも修験祈祷の型が込められているのは意義深いことだと思います。
閑話休題
前置きが長くなったので、熊野堂神楽の由来については明日記述することにして、早速神楽についてです。
こちらの神楽は仙南地域に広く分布する十二座神楽ですが、熊野堂流神楽ということで仙台地方の神楽の元になったものという。
神楽番組は12座ありますが、この日は祝詞奏上から始まりました。
続いて二番の神招の舞です。
本来は四方拝の舞から始まるのですが、春季例祭は舞楽上演もあるので、神楽は演目を選んでの上演となり、秋の例祭には全て上演されるということなそうです。
この日、境内の桜は散っていましたが、神楽殿が浮かぶ池には桜の花びらが一面に広がり、得も言われぬ情景となりました。
また、朝から強風と雨で、どうなることかと思われましたが、神様のご加護か奇跡的に晴れ上がりました。
神招の舞は、天児屋根命と天太玉命の二神の舞です。
天の岩戸の前で、神々はいかにしたら天照皇大神が岩屋から出てくるかということを神議りしていた様子を演じたものということです。
動画でどうぞ。
