上沼法印神楽 宮静@登米市内法印神楽実演会
さて、本日は登米市内法印神楽実演会から上沼法印神楽さんの宮静(みやしずめ)です。
その前に、上沼法印神楽さんの由来について
「法印神楽は、仙台藩の北部(現岩手県南地域)に発祥したとみられ、大別すると二流派あり、一つは、三陸沿岸の気仙沼市や石巻市に広く分布する「浜神楽」と呼ばれる流派と、もう一つは、室町時代の康暦年間(1379~ 1381)瀧澤道胤から岩手県東磐井郡藤沢町西口(現一関市)にあつた不動院に伝えられた流派で「流神楽」と称される法印神楽があります。
上沼法印神楽は「流神楽」と呼ばれる神楽で、上沼八幡神社の所伝によると岩手県東磐井地方に発したとみられ、藤沢町西口から上沼八幡神社に伝承され、その後、享和年間(1801~ 1803)京都賀茂出身で東叡山(上野寛永寺)の楽人・峻學が東北地方巡視の折、上沼妙覚院 (白旗家)に滞在したとき、種々の神楽を伝承したのが「加茂流」と言い伝えられています。
江戸時代中期には、妙覺院を中心とした六カ院
旧上沼村妙覺院
旧桜場村八幡寺(清水家)
旧新井田村一乗院(新井家)
旧黒沼村黒沼寺(黒田家)
旧水越村長谷寺(春日家)
旧浅邊村三壽院(芳賀家)
の修験集団により神楽が演じられ、後年、神楽組に加わる法印も増え、往時は十三カ院を擁するに至り、
幕末まで盛んに行われてきました。
しかし、明治初年(1868)の神仏分離令や明治5年(1872)の修験道廃止令の発令に伴い修験院が解体され、法印たちも減少の一途を辿り、明治末年には神楽が演じられなくなりました。
こうした状況を憂慮した上沼、櫻庭、新井田、黒沼の法印達が中心となり神楽を再興させるため資本を拠出して、大正5年(1916)8月、仏式に傾いた神楽手続を神式に改め、表神楽十五番・裏神楽十五番・秘伝神楽三番併せて「三十三番」に組み立て、上沼八幡社の氏子に神楽を伝え現在に至っています。
なお、同系の神楽は、全国でも中田町の「上沼加茂流法印神楽」と「日高見流浅部法印神楽」の2団体のみとなっています。
演目の宮鎮は女舞の基本舞とされ、御儀式三番のうちの最初に演じられるもので、浜神楽には無い演目です。
天照大御神が葦原の中津国を麗しく治めた様子を表した神楽ということです。
途中からは面を外しての御神楽になります。
動画でどうぞ。
