鶯沢八ツ鹿踊り @ 鶯沢八幡神社大祭
さて本日は、鶯沢八幡神社大祭で神社境内において奉納された鶯沢八ツ鹿踊りについてです。
実はこの日はこの鹿踊が神社下の鳥居から太鼓を鳴らしながら上がって来るということを聞いたので、その撮影をしようと10時頃に現地に着きましたが、誰もいませんでした。
結局は神事が終わった12時頃から鹿踊が始まったという顛末でした。
ということで、鶯沢八ツ鹿踊りの由来については次のとおり
「むかし、獅山様という殿様が行参堂(現在の岩手県奥州市江刺区)に御出馬なされたとき、この八ツ鹿踊りを御覧になって非常にお気に召され、踊り12組に限り「行参」の2字と九曜の紋所をつかわされました。このとき、踊りに加わつていた栗原村(現在の栗原市栗駒尾松)の長七と、鶯沢村の彦六がそれを頂戴し、その後梁川様(鶯沢村三百石の殿様)お抱えの八ツ鹿踊りとなりました。」
ということですが、この行参堂がどこかも不明ですし、踊り組12組の詳細もわかりません。
しかしながら、鶯沢梁川氏は江刺の北辺を所領していた伊達家ゆかりの梁川氏と関わりがあるといえるので、青の繋がりから交流があったともいえます。
いずれにせよ、この鶯沢鹿踊は嘉永四年(1851)に鶯沢梁川氏から流しに九曜紋、前幕に九曜鶴丸紋を使用することを許可されたという文書があるということなのでそれ以前から行われていたものと思う。
栗原村の長七が始めた鹿踊は、その弟子である鶯沢村の彦六が花山村の源太郎に伝授した。その後鶯沢では伝承が一時途絶えたが、天保八年に花山村の栄作から習い受けて再興した。
伝承系譜は
長七(栗原村)-彦六(駒場)-源太郎(花山村)-平太郎-唄吉-栄作-戸与兵衛(駒場)-与右衛門-戸兵衛-助左衛門-勘五郎-長之助-長右衛門-勇助-勇太郎-鈴木勇五郎-俊吉-高橋亀蔵-高橋悟-狩野栄一-鈴木信夫-後藤家光(現庭元)
伝承している演目は、庭廻り(入掛舞)、女鹿かくし舞、二つ狂い舞、三つ狂い舞、皆狂い舞、案山子舞、安着舞、縄舞、笹舞、その他(竿引舞、坊主舞、供養舞など)としている。
こちらの装束は流しに特徴があります。
これは女鹿で、白抜き九曜紋に「奥山に紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ秋は悲しき」の和歌が書いてある。
中立ちのみ「行参」に倶利伽羅竜王が描かれている。
側鹿はすべて「都路」に倶利伽羅竜王。
都路の意味を鹿踊の方に伺いましたが不明とのことです。
神社の境内での鹿唄を書き留めておきます
御 宮
参り来て これのお宮を 拝すれば 七間四面に たてておかれた たてておかれた
七間四面の広い庭 からかねわにぐち かけておかれた かけておかれた
一礼もうして たてやわがつれ たてやわがつれ
この他にも鹿踊の方から唄メモをいただきましたので最後の方に参考に掲載しておきます
動画でどうぞ。
鶯沢町八ツ鹿踊り◆神社での唄
※ 御 宮
参り来て これのお宮を 拝すれば 七間四面に たてておかれた たてておかれた
七間四面の広い庭 からかねわにぐち かけておかれた かけておかれた
わにぐちの みおにとりては なになにや あやとにしきを かけておかれた かけておかれた
一礼もうして たてやわがつれ たてやわがつれ
※鳥 居
参り来て これの鳥居を 拝すれば 石の鳥居に 金のおきもの 金のおきもの
※御神坂(おみさか)
(参り来て)これのおみ坂 拝すれば 七坂(ななさか) 八坂(やさか) 九坂(きゅうのさか)
おりめ おりめは かねのきだはし かねのきだはし
※御 旗 (おはた)
参り来て これのおはたを 拝すれば 万本松 千本小杉と はたあげて 神に鎮守と あ|ずたはたかな あげたはたかな
※橋
この橋は いかなる大工が かけた橋 飛騨の大工が かけたそり橋 かけたそり橋
※御灯籠
参り来て これのとうろう 拝すれば 上下半月 中はまんまる 中はまんまる
※あまいぬ・・・<狛犬のことか>
(参り来て)これのあまいぬ 拝すれば あうんのあまいぬ 立てておかれた
※御長ど<・・・<御長床のことか>
参り来て これのながど< 拝すれば 上り下りの 内社人あまた盛りて めでたかりける
立てておかれた めでたかりける
※御 庭
参り来て これのお庭を 拝すれば 四方四角に 白砂の庭 白砂の庭
※御ま<
参り来て これのおま<を 拝すれば あやとにしきを は□ておかれた は□ておかれた
※御宮
参り来て これのお宮を 拝すれば 七間四面に たてておかれた たてておかれた
七間四面の広い庭 からかねわにぐち かけておかれた かけておかれた
わにぐちの みおにとりては なになにや あやとにしきを かけておかれた かけておかれた
一礼もうして たてやわがつれ たてやわがつれ
