富沢神楽 法童丸母子対面の場 @ 東北神楽大会
さて、今日は富沢神楽さんの法童丸母子対面の場からです。
富沢神楽さんの由来については定本から
「明治二○年頃、蕎麦沢の佐藤林之丞が庭元となり、西磐井郡金沢村飯倉神楽の小野寺忠七師匠(飯倉から真滝小林に婿養子に来た人)を招き、部落の若者達に神楽の指導を行ない富沢神楽を創設した。
明治時代、初期の人達が二期、三期と舞人の養成を図ったが大正初期に絶えた。
昭和三年、佐藤民治が発起人となり佐藤甚之助が庭元となり、飯倉神楽より高橋衛師匠を招き佐藤民治と共に神楽の指導を行ない、富沢神楽を再興した。
初代庭元佐藤林之丞、二代三代佐藤甚之助、四代佐藤利男、五代千葉清人、六代佐藤登である。」
とありますが、現代の代表者は佐藤徹さんです。
さて、演目は心ならずも敦盛を討った熊谷次郎直実が敦盛を葬った後に出家して蓮生坊と名乗った。
蓮生坊は法然上人の弟子となり、加茂の明神下り松の下で拾った敦盛の子法童丸を七歳になるまで育て上げた。
ある日、法童丸があまりに母を恋しがるので、加茂の明神に連れて行くことになる。
法然上人です
そして、加茂の明神前で呼びかけると一人の女性が現れ、我こそは無冠の太夫平敦盛が妻の玉織姫と名乗り出るのでした。
母玉織姫から、父の戦死のことや、父の仇の話を聞くにつけ仇をうつべきか悩みます。
親の仇と蓮生坊に斬りかかる法童丸に対して、法然上人は例え親の仇であろうともここまで育ててもらった恩義を忘れてはならぬと諭す。
和解した三人はめでたく千代の御神楽を舞うのでした。
そして法童丸は父の眠る一の谷へと急ぐのであった。
動画でどうぞ。
