河内家菊水丸 「秀ノ山雷五郎 情け相撲」 @第5回三陸海の盆in気仙沼
さて、本日は三陸海の盆から河内家菊水丸さんの「第九代横綱秀ノ山雷五郎 情け相撲」についてです。
じつは、河内音頭=江州音頭については、いつか取り上げてみたいと思っておりました。
河内音頭や江州音頭といえば関西の盆踊り歌で、東北の芸能とは無縁のことのように思われますが、故小沢昭一によれば、蜘蛛の糸を手繰るように関係があるのだということです。
それはさておき、河内家菊水丸さんとそのグループは、東日本大震災の後にこの三陸海の盆にはほとんど毎回大阪から駆けつけて出演しています。
というのも、菊水丸さんの伴奏でギターを担当している石田雄一さんが、阪神淡路大震災で長田区の実家を全焼する被害を被った経験から東北を支援するということから三陸海の盆に出演するようになったということのようです。
ということで、この河内音頭=江州音頭について若干の説明です。
もともと、このように拍子をつけて経文や説話を語る形式は、古くは仏教の声明や山伏の祭文からきており、節に合わせて物語を語る「口説き」が民衆に受け入れられると次第に風流化し、貝祭文やデロレン祭文、チョンガレ節はては浪花節へと変節していきました。そして江州を発端とした流れは北上して越後の瞽女唄や五色軍談などに変容し、東北地方に至っては瞽女唄や祭文語り、そして奥浄瑠璃へと派生していきます。
そしてその先に、民衆受けする物語を語りながら劇をする南部神楽へとも引き継がれていきます。
さて、立ち返って河内音頭=江州音頭ですが、上演形態には2種類あり、音頭の調子で盆踊りを踊る「棚音頭」と、音頭が主ではなく語り=口説きが主となる「座敷音頭」があります。
前者は、デロレン祭文でいえば声に抑揚をつけながら思いつきの文句をつけながら唄う盆踊り唄といった趣のものです。
一方の後者は、口説きそのものといった感じで、節や伴奏もあまりなく、ストーリーを聞かせる構成の浪曲の元祖といった感じです。
そして、この日の菊水丸さんの河内音頭芸題は「秀ノ山雷五郎 情け相撲」です!
菊水丸さんはもとより相撲の大ファンで、自身がこの人情相撲の芸題を十八番としていたそうです。
そして、この日のステージでは菊水丸さんが「いつかは訪れたいと願っていた秀ノ山の出身地である気仙沼でこの芸題を演ずることは感慨一入」と言っておられました。事実この日も、舞台の前に岩井崎にある津波にも流されなかった秀ノ山の銅像を拝んできたということです。
さて、九代目横綱 秀ノ山雷五郎 情け相撲についてです。
秀ノ山雷五郎こと橋本辰五郎は江戸末期(文化5年)に気仙沼の海運業の家に生まれ、力自慢だったが満足行かずに江戸へ出奔する。しかし、生来の身長の低さから取り持ってくれる旦那がなく、苦労の末に雲州の抱え力士、その後に南部藩の抱え力士となり出世する。そして関脇から大関へと昇進するか否かの場所で旦那の伊勢屋金兵衛から「勝てば晴れて大関岩見潟を名乗り、芸者の玉千代を見受けして夫婦にしてやろう」と言われます。
一方の鷲ヶ浜関は成績不振で旦那の庄内様からこんど負ければ破門とい言い渡されて、明日負ければ自害すると考えていた。それを嘆いた鷲ヶ浜の母親が岩見潟に事の始終を話し負けてくれるよう懇願します。
これに思案した岩見潟は、故郷気仙沼の母親を思い重ねて明日の取り組みについて寝ずに悩みます。
そして、いざ土俵に上がり行事軍配が上がり岩見潟と鷲ヶ浜ががっぷり四ツに組んだ。
その刹那、岩見潟は鷲ヶ浜の顔に彼の母親の顔を重ねて一瞬気が緩んだ。「ここで勝っては男がすたる」
そこを逃さず鷲ヶ浜が見事に上手投げで岩見潟を投げ飛ばす。
負けた岩見潟は人情に負けたとはいうものの旦那に顔向けたたず「この上は故郷気仙沼へ帰ろう」と決心します
(画像は2014年5月撮影)
しかし、旦那の伊勢屋は岩見潟を呼びつけ、話は鷲ヶ浜の母親から聞いた、その心意気や良し、この上は更に精進し相撲を続けよと励まします。その後、岩見潟は相撲に精進して九代目横綱の名跡を得ることになります。
人情相撲の節談はここまで。河内音頭を最後まで盛り上げてくれたのはこの日気仙沼市に寄贈された太鼓を渾身の力で演奏した
三条史郎さんです。
動画でどうぞ。
