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2015.08.05 | Comments(0) | Trackback(0) | カテゴリ神楽

中野神楽 義経一人舞 @源義経公生誕850年祭

さて、本日は7月20日に、宮城県栗原市にあります栗原寺で行われました「栗原市合併10周年記念 源義経公生誕856年祭」から、奉納神楽である「義経一人舞」についてです。

源義経が奥州平泉へ下向する際に立ち寄ったという伝説から生まれたこの祭事ですが、地元の皆さんの義経にかける熱心な信仰がよく見て取れます。

さて、この場所、栗原寺(及び久須志神社)について7,境内の表札にはこう記されています。

安永の御書上である「栗原風土記」用明天皇二年587年の開山で、白馬山栗原寺と称し、天台宗奥州総本山であり、金堂(本堂)を中心に三十六坊に分かれ、七堂伽藍を備え、僧侶一千人を配していた。その後、たび重なる戦乱で焼失し、平泉の藤原氏滅亡後廃寺となったが元禄二年1698年仙台の恵沢山竜法寺宥日和上が再興し、宗派を真言宗に改め、醫作山上品寺となると記す。栗原寺の名を古くは鎌倉期の正史「吾妻鏡」や「義経記」に識ることができる。特に「義経記」ニは、源義経が源頼朝に追われ、金売吉次に伴われ藤原秀衡を頼っての「東下り」の際栗原寺に一泊し、藤原秀衡の迎えとともに栗原寺僧兵五十人の護衛を従え平泉の中尊寺入りをしたのと記される。由緒ある寺であった。これまで栗原寺を実証する資料がなく、「幻の寺」として解明は謎に包まれていたが、昭和三十七年十一月に開始された東北大学高橋富雄教授を中心にとしたグループの発掘調査により、この境内に内地に栗原寺近藤跡が確認され、にわかに脚光を浴びた。また、栗原寺脇仏と推定される平安後期の一木彫、観世音菩薩立像や如来座像等も安置され、往事の栗原寺の壮大な伽藍配置を彷彿とさせる。



とあり、古くは平泉中尊寺と並んで天台宗の重要な寺であり、現在では地域の信仰の中心となっているようです。




そして、「義経公生誕856年祭」とは、1159年(平治元年)に誕生してから856年の歳月を経ても尚地元の人々に尊崇されている祭りといえます。

この生誕祭に関わる行事が始まったのは、平成11年に神奈川県藤沢市にある義経の首塚と栗原市にある胴塚の霊を合祀しことが最初で、以来毎年4月に散華会、その八十八日後の7月に生誕祭をおこなっているということです。


この日も、檀家衆が本堂に集まり、住職の読経に続いて真言を唱和して義経の追善供養を行いました。

IMG_3806.jpg

そして、今回のスペシャルゲストとして、京都の鞍馬寺から副貫主の信樂香爾氏と鞍馬寺博文館館長の曽根祥子氏が来るとあって、本堂は超満員でした。

この副貫主の法話と、館長さんの鞍馬寺と義経に関する講話を聞くことができて大変良かったです。
お二人共、義経の縁で鞍馬寺に植樹された桜にまつわるエピソードについて話され、木というものは葉や花が出ていなくても根がしっかりと地についていればやがて大樹となるという箴言を披講されていました。


IMG_3816.jpg

さて、お待ちかねの神楽奉納です。

この日の奉納は地元の中野神楽さんです。
胴取りは佐藤高広さん、鉦摺は佐竹代表と高広さんのお子さんたちです。



IMG_3810.jpg

演目の「義経一人舞」は、栗原市栗駒沼倉の菅原次男氏という、この義経生誕祭を起請した方が創作した演目です。
高舘落城に際して、源義経が兄頼朝に責められる不遇を嘆きながらも、世話になった藤原三代の恩と、みちのくの民の平和のためえに自らの首を差し出す覚悟を詠いながら舞納めるというもので、神楽の途中で本堂内に据えられた兜と鎧を合体させて義経の霊を慰めるというものです。

この日は、本堂内が超満員でしたので、カメラ位置がうまく取れず、舞手の後ろ姿しか撮れていませんがご了承ください。

IMG_3809.jpg

動画でどうぞ。

テーマ:伝統芸能 - ジャンル:学問・文化・芸術

2015.08.05 |

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Author:祭りの追っかけ
祭・・・それは祈り、畏れ、そして縋り付くばかりの信仰、神人共生の歓びの象徴。さて、明日のエネルギーの糧を求めに彷徨おう。

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