沢辺神楽 秀衡桜狩の場 @第38回みちのく神楽大会
さて本日は沢辺神楽さんの 秀衡桜狩の場について
その前に沢辺神楽さんの由来を定本より
「昭和四九年一○月、斉藤憲雄が庭元となり、城生野神楽の熊谷勤師匠を招き部落の青年達に神楽の指導を行い、沢辺神楽を創設した。
※昭和四八年発刊の金成町史によれば、南部神楽の流れをくむ神楽が各地区に組織されていたが、昭和二○年前にほとんど絶えた。
昭和三八年、平形神楽が解散に及び完全に消滅した。
岩手県の大門神楽、飯倉神楽の流れをくむもの、有壁神楽、藤渡戸神楽、赤児神楽、畑神楽、岩崎神楽、大原木神楽。
城生野神楽の流れをくむもの、平形神楽、姉歯神楽、下沢辺神楽、小堤神楽であった。」
ということなそうです。現在の代表は佐藤忠一さんです。
さて、秀衡桜狩の場という少し珍しい演目ですが、沢辺神楽さんは昭和63年のみちのく神楽大会でこの演目で優勝しています。
物語は、奥六郡の主である藤原秀衡が花見の祝宴をしている場面から始まります。
そこへ、藤原基成の娘であるしずはた姫が京都から連れ立ってきた金売吉次とともに父を探し当てるため、秀衡と対面することになります。
吉次はなぜか道化衣装ですが、この演目では道化はしないようです。
話は遡って、奥州藤原家と藤原基成の関係について少々。
後鳥羽院の重臣であった藤原忠隆の息子で、兄弟姻戚に関白が多くいるなど権力の中枢近くにいたようです。
その基成は、康治2年(1143年)4月に陸奥守に任官され、6月に鎮守府将軍を兼任し平泉へ下向。その後、仁平3年(1153年)までの約10年間を平泉で過ごしている。
その後、平治元年(1159年)の平治の乱で敗れた異母弟・信頼との縁座によって陸奥に流された。以降、秀衡の岳父として衣川館に住み、奥州藤原氏の政治顧問的な立場を確立した。
この間、平泉二代藤原基衡と親交を深め、政治的相談役ともなったことなどから、娘を基衡の息子秀衡に嫁がせている。
その娘がこのしずはた姫ということです。
秀衡が京都の朝廷と長く政治的均衡を保てたのもこの基成の助力があったことともいえますが、秀衡としずはた姫の子、泰衡の時代になると風雲急を告げることになるのですが・・・
さて、演目では流罪になった父基成を娘しずはた姫が尋ねてきて、自らを表すため歌と舞を花見の場で披露する場面となります。
扇車の舞が艶やかです。
動画でどうぞ。
