達古袋神楽 屋島合戦継信最期の場 @えさし藤原の郷
さて、本日はから達古袋神楽さんの屋島合戦継信最後の場についてです。
その前達に達古袋神楽さんの由来について
「明治二年の火災で記録を失ったので資料はないが伝える所によれば、八幡神社は田村麻呂公の勧請といい、康平五年(一○六二)八月一五日再建の棟札もある。
八幡山常学院は、京都本山派の相模坊が、文明一○年(一四七八)開設し、古くから八幡神社の奉納神楽として法印神楽が舞われて来た。
なお弘化年代(一八四四)に神楽も盛んになり、明治以降には、胆沢地方、宮城県北、栗原郡、玉造郡等にも伝えられた。
明治以前は常学院が宮元となり指導に当ったが、以降の歴代師匠は、明治一一年小野寺伊三郎、明治二○年阿部徳太郎、明治二五年小岩勝蔵、明治三○年小岩利右エ門、小岩彦三郎、大正九年~昭和三八年まで阿部長治、以降阿部孝が指導に当り後継者の養成に当った。」
とありますが、現在の代表は小岩恭一さんです。
演目は屋島合戦から、義経主従と能登守教経勢が激戦を繰り広げ、源氏方の勝利に終わったが佐藤継信が命を落とすという悲劇の物語です。
戦いは義経と能登守教経の大将戦となり、教経の矢面に立って主君義経を守らんとする継信でしたが、一の矢二の矢は防いだものの、管矢を身に受けて重症を負います。
継信が陣屋に戻らないことを聞いた義経は、継信の弟忠信を呼び寄せて探しに行かせます。
夕暮れとなった砂浜を探り歩く忠信
〽 頃は弥生のことなれば 暗さも暗いし中 手負い討ち死にせし人々が数多ある
余りの大勢さに 腰なる短剣を杖にして 討ち死にせし人々に念仏唱えて急ぐなり
遠く微かに声がする 敵の管矢にかかるとは 情けもないぞよ 兄上ぞ
継信は今一度主君義経に会いたいと願います。
忠信は兄を背負って高松城へと向かいます。
主君と最期の対面をした継信は辞世の和歌を詠みます
〽 東より 四国八島の磯に来て 君の命をここに継信
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