嵯峨立神楽 軍勢借り @えさし藤原の郷
本日は 嵯峨立神楽さんの軍勢借りについてです。
その前に、嵯峨立神楽さんの由来について
「嵯峨立神楽は、修験道賀多羽流と称し弘化年間(1844~ 48)嵯峨立普慶院第二十四世佛心得宗大和尚により伝承されたと言われていますが、中田町上沼八幡山にある「上沼加茂流法印神楽」の由来書には、江戸時代中期、中田町内にある六ヶ院の法印たちにより神楽を執行し、文化・文政の頃には、東和町錦織や嵯峨立の法印も加わり十三ヶ院で神楽を演じていたとの記述があり、現存する古い神楽本には上沼や浅部の法印神楽と同じ演目が残されています。
明治初年、神仏分離令により修験宗が解体され、法印神楽の継続が困難となり、明治初期に当時流行していた南部神楽を取り入れ変容したものと思われます。
他の南部神楽では決して演じることのない法印神楽のみに伝わる「笹結び」や「宇賀玉」などの演日が嵯峨立神楽には伝承されており、法印神楽の芸風を色濃く残したきわめて貴重な南部神楽となっています。」
とありますが、現在の代表は小野寺義之さんです。
軍勢借りの内容は、治承4年(1180年)兄頼朝の出陣に参戦しようと、義経は平泉から奥州各地の兵を引き連れながら鎌倉に駆けつけ、福島からは基治の子、継信と忠信が加わったというものです。
藤原秀衡から荘園を預かる佐藤基治は福島県の飯坂周辺を根拠としていた。
そこを訪れた義経が武勇をはせた兄弟がいるということで、二人のうち一人でも貸してほしいと佐藤基治に願い出る。
義経です。
佐藤庄司基治に対面し、軍勢(加勢)を願い出ます。
父基治の呼びかけに応じて、兄継信、弟忠信がまかり出ます。
継信と忠信は、我こそ武勲を立てたいと他をおしのけて出陣しようと兄弟争いをします。
そこで父基治は二人とも義経の家来となって名を挙げよと告げる。
そして、兄継信には、戦場での心得として、敵将の放つ一の矢、二の矢は手で払っても、三の矢は管矢に違いないので、必ず刀で薙ぎ払えと教えます。このことが後の屋島合戦の場面の伏線になっています。
動画でどうぞ。
