小迫の延年8 馬上渡し
さて、本日は小迫の延年から最後の演目となる「馬上渡し」についてです。
文治五年七月、二十八万の大軍を率いて平泉の藤原泰衡を討伐に来た源頼朝が、つく藻を敷いて三迫川沿いの深い湿地を馬で渡って、津久毛橋城を攻め落とした。そして、坂上田村麻呂創建の戦勝の神である小迫白山神社に戦勝を祈願し、平泉へと北上した。
秋十月、平泉を落城させ、鎌倉へ凱旋する途上に再び小迫白山神社に詣でて将兵を労うとともに、境内で流鏑馬を催して戦勝を祝った。
以来、勝大寺の僧侶らが、その御報賽に感謝して後世までこの故事を伝えようと、流鏑馬を「馬上渡し」の演目に脚色して
延年の中に組み入れて、文治五年以降に演じるようになったと考えられている。(小迫延年保存会発行資料より)
長床から境内へ騎馬武者が出てきます。
最初は先駆けとして後藤兵衛実元が前口上を滔々と言上します。
「いかに人々聞こしめし候へ、あれは八島・壇の浦において源氏・平家の戦にて候」そう言うと長床へ帰ろうとするが、戻って来て「かく申す某は後藤兵衛実元にて候」と名乗って引き返す。
次に源頼朝以下の武将が馬に乗ったまま境内に陣を構えるが如く整列して扇の的の場面を演じる。
境内では杉の木に大きな扇の的が立てかけられ、その中央に平家の印である赤旗が掛けられ、反対側の白山神社の鳥居には源氏の印である白旗が掛けられている。
つまり、この境内で源平合戦のクライマックスである屋島の戦いにおける那須与一の扇の的射ちを再現しようとするものです。
馬の轡を並べて言上が始まります。
源 頼朝
「さん候」
畠山重忠
「あれあれごらん候へ、沖の平家よりみな紅の扇を出され候ば、あれは源氏に射よとの計にて候、誰にか仰せつけられ射させるべく候」
千葉介常胤
「人多しとは申せども、那須与一宗高こそは丈は小兵に候えども、かけ鳥など仕るに三つに二つは留むる仁にて候、かの仁に仰せ付け射させるべく候」
和田小太郎義盛
「いかに与一承るか、君よりの御諚にはあの扇を一矢射て国々の諸大名に見物させよとの仰せにて候」
那須与一宗高
「仰せはさように候へども、波の上のこと、いかでかは仕るべく候」
後藤兵衛実元
「御諚背くべきに候はば、とくとく、鎌倉へかえられるべく候」
那須与一宗高
「御諚背く候間、一矢仕るべく候」、「南無正八幡大菩薩、別しては那須の弓神大明神、然るべしをも候はば、あの扇一矢射させ給はるべく候」
と弓に矢をつがえて的を射落とす。
古来扇の的を手に入れた部落は、その年は豊作であるといわれ、又、この的を祀っておくと火災予防にもなるということで、必死に的の奪いあいがおこなわれて来ました。
正に春先の農作を占う大事な祭りであったということです。
動画でどうぞ。
