村崎野大乗神楽 「鬼門」
さて、本日は3月7日に行われました大乗神楽公演映像記録を参観した際のリポートです。
今回は北上市文化財活性化実行委員会が、国の「文化遺産を活かした地域活性化事業」の補助で取り組んでいる記録事業の一環で、東北文化財映像研究所が同委員会から記録作業の委託を受けていることから映像記録の現場を公開しながら一般市民にも大乗神楽を鑑賞する機会としたものです。7日と8日に行なわれ、8日には黒森神楽の公演も行ったということです。
そのうちから、本日は村崎野大乗神楽さんの「鬼門」についてですが、その前に同団体の由来について「伊勢の森の大乗会(2009.7.12)」パンフレットより参照
「村崎野大乗神楽は、天照御祖神社の付属神楽です。奥寺八左衛門配下の山伏・佐々木惣二郎が加持祈祷して寛文六年(1666)に水の取り入れ口を見立て九年後に堰が開通し、元禄二年(1689)村崎野に神社(妙法院)が移りました。そして周辺の山伏達と和賀山伏神楽を起こしたと言われています。幕末にはその神楽も衰退、万法院で開かれた大乗会を契機に広まった神楽を取り入れ大乗神楽として再興されました。
昭和二五年まで神社の宮司。伊勢潔が榊を舞い奉納し、続いて飯豊の斎藤徳重が幕神楽を奉納していましたが、昭和二九年に中断し権現舞のみになりました。昭和五九年、保存会が結成され、中野善一が北笹間大乗神楽の小原長次ヱ門より榊を伝授、平成八年四月十六日春祭りで奉納し幕神楽を復活しました。その後、3人が榊を伝授し、多くの演目を復活
しています。平成十六年の大乗会には、宿・上宿両神楽に榊を伝授、鬼門を見事復活させ大乗会の成功に貢献しました。
神社の元旦祭に奉納、火防祭、四月十六日伊勢神社春祭り、北上大乗神楽大会、北上みちのく芸能まつり、九月五・六日伊勢神社例大祭、十一月上旬三月田不動尊へ宿大乗神楽。上宿和賀神楽と共に毎年奉納。十二月の二子地区大乗神楽発表会や舞初め、各種イベントで活躍しています」
とのこです。現在の代表は中野善一さんです。
演目の鬼門については当日パンフレットより
「装束は、鈴懸衣に結袈裟で裁着袴に手甲脚絆を付け、八目草鞋を履いて法印二人が舞います。
鬼門とは、忌み嫌われる方角・北東(丑寅)とその反対の裏鬼門は南西(未申)を一般には言います。
陰陽道では鬼が出入りする方角だとされています。鬼門は忌み嫌われるばかりでなく逆に神々が通り、太陽が生まれる方角だから清浄を保たなければならないとも言われています。
鬼門の舞は、寅舞とも呼ばれ「表寅」と「後寅」が、鬼門・裏鬼門の注連縄で仕切られた鍔釜の前で鉾を持つて舞い、注連縄を切り落とします。
明治八年の大乗会記録によると垂迹神は、「陰陽の二神」で本地仏は、「梵天と帝釈」となつています。梵天は、古代インドの神で仏教の二大守護神とされており、帝釈天と対で祀られています。「陰陽の二神」は定かではありませんが役小角の従者の夫婦鬼「前鬼・後鬼」と言う説もあります。」
ということです。
陸前浜の法印神楽では、鬼門は荒神と共に極秘伝の曲とされていてますが、大乗神楽でも最秘伝とされていて大乗会にのみ演じられるということになっています。
また、内容も陸前浜の法印神楽では最初にツケが出て舞い、次に三人の鬼子が出て戯れたのち鬼門から裏鬼門へ縄を渡し、次に出てきた責役がこれを切るという内容になっています。
一方、大乗神楽では二神の相舞となっていて、鬼門・裏鬼門に据えた湯立の釜の前で祈祷し、七五三縄を切るというに用になっています。
それにしても、90分を超える内容であるにもかかわらす、終始離れた場所でピタリと相舞の手を合わせるというのは相当の修練が必要だと思います。凄いことです。
この日は舞台の両脇に鍔釜が据えられていたので二人の舞を同時に撮影することが出来ませんでした。(ワイドコンバージョンレンズをつけていないものですから・・・)
本田安次の「陸前浜の法印神楽」の中に「陸中江釣子の大乗神楽」という項を起こして大乗神楽の演目について詳しく記載されています。
それによると鬼門は一番から七番までに区分けされているようです。
その七番に「釜の前にて鉾を取り、剣印にて左右に二度禮して右を立ち廻る、・・・右手にて、七五三を打つなり。亦左手にて打つなり」とありますとおり、鉾を刀に持ち替えるや一気に七五三縄を切ります。
そして最後は御神楽常の如しとなります。
大変見事な舞でした。お二人に大拍手です。
動画でどうぞ。
