牧澤神楽 生田が森墓所 @一関民俗芸能祭
さて、本日は牧澤神楽さんの一の谷軍記より 生田が森墓所 についてです。
その前に、牧澤神楽さんの由来について定本より
「明治42年秋、牧沢部落にある八幡神社の秋季例祭に、西磐井郡山目村赤荻笹谷神楽を奉納した。
この神楽のすばらしさにひかれ部落の八幡神社の奉納神楽を組織しようと相談した。
阿部繁雄他八人が世話人となり、西磐井郡金沢村、飯倉神楽より菅原貞四郎、菅原惺、高橋衛、岩渕惣之進等の師匠を招いて神楽の指導を受け、牧沢神楽を創設した。
初代庭元阿部繁雄、二代阿部繁美、三代阿部繁行である。」
とありますが、昭和末期に中断した。その後真滝中学校で鶏舞を指導された子供たちが成長し平成14年に再結成した、現代の代表者は阿部繁行さんです。
演目は、一の谷軍記から、法童丸が父敦盛を慕って墓所へと参詣する場面です。
能楽でいうところの夢幻能のような構成をもっています。
当日プログラムの解説文を参照して紹介します。
法童丸は、育ての親 蓮生坊に父の墓所を教えられ、播州は生田の森の萱野に急ぐ。
法童丸です
加茂の明神の導きで父敦盛の墓所に着き対面する。
父魂塊敦盛の膝枕で長旅の疲れからうたた寝をしてしまう。
我が子法童丸に、一の谷で熊谷直実殿との一騎打で一度は助けられたが、平山武者所に見咎められ、熊谷殿が涙ながら自分の首を討ったことなどを話してくれた。
そして一首和歌を『都より 生田の萱野に 尋ね来て 父の姿に 逢うた計りか 見た計り』と書き残して消えた。
法童丸はしばしのまどろみに気が付き、父が花の浄土に座るょうにと念仏を唱え、母の待つ都に帰る場面を演じる。
その後法童丸は、母共々僧侶となり明け暮れ香花を手向け菩提を弔う御影堂と号す寺を建てた。
動画でどうぞ。
