栗原神楽 勧進帳 @尾松神楽鑑賞会
さて本日は第35回尾松地区神楽鑑賞会からトリをつとめました栗原神楽さんの勧進帳です。
栗原神楽さんの由来については定本より
「明治一二年三月三一日、栗原悦之助が神道事務局に神楽の届出し承認を得た文書がある。
岩手県萩荘村市野々の自鏡山山伏神楽の指導を得たといわれている。
大正時代に復活、中断した。昭和五年、栗原の佐藤正吉が指導し再興する。その弟子代表の佐藤左吉に引継がれ現在に至っている。初代庭元栗原悦之助が中断後を再興した。」とあります。
現在の代表者は今年の1月から佐藤敬さんになったということです。
兄頼朝に追われる身となった義経は山伏の姿に身を変えて奥州平泉へと弁慶他数名の郎党を引き連れて落ち延びることにしました。
平泉へと落ち延びる途中に安宅の関に差し掛かると関守の富樫に呼び止められます。
源頼朝が弟義経に追手を掛ける命令をくだしていたため、諸国の関所では取り調べが厳しくなっていて中です。
そこで、山伏である証を示せと迫られた弁慶が東大寺建立の勧進帳を読み上げることになります。
さて、ところで肝心の勧進帳についてですが、そもそも弁慶が空読みした勧進帳とは一体どういう内容であったか。
勧進帳の中の一節にはこうあります。
「(聖武天皇が)廬舎那仏陀 建立したもう、然るに去んじ治承の頃 焼亡しおわんぬ」
つまり聖武天皇が建立した奈良の大仏で有名な東大寺が焼失したので、それを再建しようということで諸国を勧進して歩いている、という内容です。
そして、その東大寺を焼き払った不心得者は誰かというと、これが平氏なのであります。
治承4年(1181年)に平清盛の命を受けた平重衡ら平氏軍が、東大寺・興福寺など奈良の寺院を焼き払った、いわゆる南都焼討です。その2ヶ月後に平清盛が謎の高熱を出して死亡したので人々はこれを南都の仏罰だと噂したそうです。
それもあってか後白河法王は僧重源をして大勧進職に任命し諸国から浄財を集めるよう指示した。
ちなみに、この時重源は西行に奥州藤原氏への砂金勧進を依頼している。
閑話休題 佐藤さんの勧進帳の空読み 素晴らしいね!
関守の富樫に剛力姿の義経を怪しまれ、やむなく主君を打ち据える弁慶
その心意気に打たれた富樫は義経一行を逃すことを決心します。
〽 ここで判官殿に縄を掛けるより、武士の情けの掛けどころ
名演技に場内は大拍手です。
今は疑いも晴れた 疾く疾く通られよ
義経主従は急いで奥州平泉を目指して行くことになります。
それにしても、この日も栗駒さんさんドリームは超満員で盛り上がり、神楽終了後は恒例の大抽選会でした。
(私は抽選会前に帰りましたが、電動足マッサージ機なんかもありましたっけね、大盤振る舞いですね!)
動画でどうぞ。
