松ノ下太神楽 @平成26年9月19日 安渡祭り 宵宮
本日からは去る9月19日に斎行されました大槌稲荷神社例祭の宵宮の様子をお伝えします。
この日、私が大槌稲荷神社に着いたのは19日の午後4時頃でした。
もうすでに、祭礼祈祷をなす信者の皆さんがお祓いを受けているところでした。
私も懇意にしている禰宜さんに挨拶なぞしながらご祈祷をお願いして祓い清めました。
神社の周りは、かさ上げ工事が進んでいましたが、相変わらず夏草だけが生い茂っています。
同神社では、安渡地区の安泰と大漁を祈願するため毎年神社の例祭日に会わせて地元の安渡地区を神輿巡幸して祭りを行ってきました。
その祭日の前夜に稲荷神社で夜籠りがなされる間に境内で奉納されるのが宵宮の芸能の数々です。
その筆頭となるのが、昔から大槌稲荷神社の神輿に供奉していた「丁印」といわれる芸能団体です。
この日最初に奉納したのはその丁印の一団体である松ノ下太神楽でした。
参道したから囃し立てながら坂を登ってきます。
松ノ下太神楽の由来については「大槌町の郷土芸能」から
「末広町(旧向川原・松の下地区)に伝わる当、松ノ下大神楽の発祥は徳川時代に遡る。
年月等については明らかでないが、大槌代官所時代に盛岡の七軒町に在住する芸人が藩主南部家に伝わる三頭権現のうち一頭をもって移住してきたものであり、時の代官、この者達をお抱え芸人とし、時折観覧していたものである。
大神楽の踊(舞方)の中に庭を踏む(庭を使う四本がためとも言う)というものがあるが、これは主に武家屋敷の庭前で踊つたことから、このように名づけられたもので殿様の御前で舞う関係上、服装も踊子以外は全員上下(かみしも)を着用するようになうていた。
構成については現在略式に流れ、笛、金(どうまえ)となつているが、当時は太鼓、小鼓、三味線及び笛、金(どうまえ)からなつていた。踊子も現在は草履など一定されていないが、従来は一本足駄をはき、野ばかまを着用したものであつた。
尚、明治末期まで、それらの諸道具が保存されていた。
七軒町の芸人がもつてきたという権現の命名は鶴千代であり、年令八百年という南部家二六代主よりの墨付も保存されている。それによると岩手郡座ヶ畑藤原家に三回領りし内の一個にて世人七浦権現の一つなり、作人光雲とのことである。
この藤原家は南部侯のおかかえ芸人と推定され、録をもらつて庄が畑に在住していたものと思われる。
また、前述の盛岡七軒町というのは七人の芸人が住んでいたことから七芸町というものが、いつしかなまつて七軒町になつたようである。
以上の如く本来は殿様の御前で踊られたものが、当町いまだ開けない時代において神のお供に何をだしたらよいかといろいろ考えられた末、権現様は神に仕えるものであるということから祭典に際し行列に参加するようになつた。
現在は大槌稲荷神社と小鎚神社祭典に参列している。」
ところで、この芸能が伝承されていた松ノ下というのは末広町から蓮乗寺へ続く道すがらの町内で、大槌の中でも歴史の古い町内だったと思います。
伝承では、旧南部家から許可を得ての太神楽奉納集団だったということのようです。
動画でどうぞ。
