川西念仏剣舞 こども同好会 @中尊寺 大施餓鬼会
ということで、平泉の南部神楽を心ゆくまで見たかったのですが、この日は丁度8月の24日ですので、観自在王院跡で南部神楽が上演されているにもかかわらず、中尊寺の大施餓鬼会に移動しました。
施餓鬼会は一般的に、死後に餓鬼道に堕ちた衆生のために食べ物を布施し、その霊を供養するものですが、今ではそれらに加えて先祖代々の祖霊を供養する意味合いも含んでいるとのことということです。
中尊寺では前日の逮夜法要から始まり、藤原四代公追善法要や百萬遍念仏、放生会などが行なわれます。
そして、大法要に先立ち、この川西念仏剣舞も毎年奉納されております。
この日も、川西念仏剣舞のこども剣舞同好会が奉納いたしました。
こども同好会は地元の衣里小学校の児童が地域の伝統芸能に取り組んでいるものです。この日の前日には盛岡市で開催された岩手県の民俗芸能フェスティバルにも出演してきました。
川西念仏剣舞の由来についてです。
「藤原清衡公が江刺の豊田館から衣川を越えて平泉に入り柳の御所造営していたころ、夜な夜な亡魂が物の怪となって世の中を荒しまわり、人々を恐れおののかせ惑わせました。清衡公は、これはどういうことかと、中尊寺のお坊様に相談しました。お坊様は「これは、過ぐる前九年・後三年の合戦において非業の最後を遂げた人たちが、成仏しきれずこの世をさまよっているものです。刀や弓で収められるものではなく、お釈迦様のお力で鎮めるしかありません」と語りました。清衡公は早速、山王権現に七日七夜のおこもりをしました。満願の日に一匹の猿公が現れ、荒れ狂う亡魂の中に混じり、猫間が淵(柳の御所と無量光院の間)に沈めていきました。御仏が猿の姿に身を変えて亡魂たちを浄土へと導いたのだと気づいた清衡公は、このことに感激し、家来の佐野弥左衛門に命じて、この様子を模し、創らせたのが川西大念仏剣舞です。なお、剣舞を創った佐野弥左衛門は、金色堂前の一角に葬られ、その墓は現在も剣舞塚として語り継がれています。」
これは、金色堂の前の広場にある念仏供養碑です。
佐野弥左衛門を顕彰して建てられたということですが、碑面はかなり摩耗しています。
最初どこにあるかわからなかったので保存会の方に尋ねました。
「これす!」と教えていただかなければわからないほど。
そしてこれは衣川の川西地区にある川西橋の欄干にある有名なオブジェ!実在の剣舞連中がモデルとのことです。
隣接地には「川西剣舞発祥の地」という石碑もあります。
動画でどうぞ。
