大原神楽 一の谷 @ 第39回胆江神楽大会
さて、本日は第39回胆江神楽大会からトリを努めました大原神楽さんの一の谷についてです。
その前に大原神楽さんの由来について定本より
「西磐井郡厳美村山谷入道の佐藤辛氏が衣川村大原に入婿し高橋姓を名乗る。
高橋辛は三輪流山谷神楽の舞人であったので、高橋寿七が庭元となり高橋辛師匠の指導で大正10年大原神楽を創設した。
戦前、戦後中断していたが、昭和四二年高橋辛、小坂盛雄両師匠の指導で現在の大原神楽が復活した。
初代庭元高橋寿七、ニ代高橋正名、佐藤光男は三代目である。」
とありますが、現在の代表は高橋末夫さん(高橋辛氏の息子さん)です。
ところで、昨日も由来を引いた「衣川芸能史」によると、大原神楽についてこう記述してあります。
「大正10年頃大原部落内に神楽を興そうと機運が高まった。しかし大原の部落では昔から鹿踊が重要な芸能としてあり、しかも近年は青年歌舞伎が人気を博していたため神楽への関心が低かった。
だが、翌年になり隣部落の畦畑に川内神楽を習得していた者がおり、それを加えて6名が高橋辛と高橋健治を師匠として結成された。」
ということです。
神楽とは関係ありませんが、この大原部落の鹿踊は安永年間に平泉(行山流)から伝承されたものらしく、大正10年に平泉で藤原清衡公800年祭に出演した以降は次第に衰退したということです。
さて、演目の一の谷は、敦盛と熊谷次郎直実の場面です。
敦盛さん 舞手は高橋靖仙さん
敦盛を見逃そうとする熊谷ですが、幕後ろから平山武者に呼び止められ、しかたなく敦盛の首を討取ることになります。
敦盛の首を掲げて、自らは武士の身分を捨てて仏門に入り、戦で亡くなった人々や、手にかけた敦盛の菩提を弔うことに一身を捧げる覚悟を決めるのでした。
動画でどうぞ。
