舞草鉦太鼓念仏 道太鼓、門誉め念仏、礼念仏
昨日の8月15日に一関市舞川地区に伝承される送り盆行事である「儛(人偏に舞)草鉦太鼓念仏」(もくさしょうだいこねんぶつ)について、一日取材した中からリポートいたします。⇒内容が沢山あるので明日も引き続き掲載します。
さて、ここは一関市でも北上川東岸に接した見晴らしの良い丘陵地帯で、気候が温暖であり、対岸には古都平泉を一望できる風光明媚な農村地帯です。ですので、平泉に近い土地柄か、神楽や鹿踊等でも周囲の魁となるような芸能団体が発祥した由緒ある地域です。
そして、この舞草鉦太鼓念仏は源平争乱の末の源頼朝軍が奥州攻めに起因する芸能ということのようです。
由来について保存会所有の念仏帳「鉦太鼓念仏」から抜粋
「西暦1189年源軍と藤原軍の戦いで死人が北上川に投ぜられ、その屍が累々と流れ、屍は舞草の地に堆積せり。
そして、首川原ができた。日夜亡霊がその地をさまよい旅人は怖れて通れなかった。
偶々通りかかった畠山重忠(注1)がその現状を見るに見かねて自分の守護神の薬師如来をその地に祀り、南無阿弥陀仏と唱えた所次第に亡霊が成仏した。
それが鉦太鼓念仏の始まりだと伝えられている。
天保8年、学問の必要と因果を知った惣太郎は寺子屋に通い、鉦、笛、太鼓を使い踊りを振り付けし舞草全土に普及現在に至ったと伝えられる。
当時、惣太念仏(そうだねんぶつ)とも言い、現在は鉦太鼓念仏(しょうだいこねんぶつ)とかわる。」
ということのようです。
発祥譚としてはこのとおりと思いますが、確たる書状はないようです。
しかし、舞川の榎木地区内に江戸時代にこの鉦太鼓念仏を中興したと思われる佐藤惣太郎を顕彰する石碑が建っております。
「一関地方の民俗芸能」誌にはその写真が載っていたものの、当日保存会の皆さんに「どこにあるのですか?」と聞いても「???」だったので、榎木地区在住の方に案内していただいて石碑探しをしました。
・・・でこれです。道路脇にありましたが、雑草蔦で見えない状況でした。
草を払って確認したら確かに文久三年に称名師佐藤惣太郎を顕彰する石碑に相違ありませんでした。
しかもここは榎木という地区でもあります。この榎木という地名は鉦太鼓念仏の歌にも出てくる地名ですので由緒が偲ばれます。
さて、鉦太鼓念仏の行道ですが、毎年8月15日の送り盆(当舞川地区)に、初盆を迎える家から請われて念仏を上げて廻る民俗行事であります。
朝8時30分に舞川1区公民館に集合して隊列を整えます。(その日にどこどこを廻るかは事前に庭元へ各家庭から要請が集まる)
そして、9時ごろから廻り始めます。
この日のスタートは1区公民館の近くの家からです。
車で移動しているのですが、念仏をあげる家の近くからは歩いて行きながら「道念仏」を上げながら進みます。
招請された家へ上がるときは、不祝儀の和尚や悪魔払いと同じように縁側から入って、縁側から帰る習いになっています。
仏間に上がると、念仏衆一同で位牌に一礼してから念仏を始めます。
現在、舞川鉦太鼓念仏で伝承している演目は11ありますが、お盆に演ぜられるのは主に3演目ということのようです。
初盆の家であげるのは「門誉め念仏」ということのようです。
〽 参りきて これのご門を見申せば 白金柱に黄金貫き
桁となるべき木は 玉を延べ 雲居に聳えて建てらるる
からき扉を押し開き 入り見たれば黄金なり
これのお庭を見申せば
南下がりに来た上がり
つるつると あがる上がる燈籠その中に
釈迦と阿弥陀と地蔵立つ おがみや おがみや (以下略)
招請した家の方では、故人の初盆ということで親戚が集まっていますので、故人の冥楽を祈念しながら念仏踊りを鑑賞します。
念仏衆の門誉め念仏が終わると、家人は念仏衆に酒食の接待をします。
これも施餓鬼供養と同様に故人への供養と考えられていて、振る舞いを行うことが亡き親族への功徳という考えが継承されていいるようです。(この辺は悪魔祓いの獅子舞巡行と同じですが)
そして、酒食の歓待を受けた念仏衆は儀礼の念仏としての「礼念仏」をあげることになります。
動画でどうぞ。
