松の下太神楽 大槌稲荷神社 神輿寄贈式
さて、本日は引き続き、大槌稲荷神社の神輿寄贈式神賑から、松の下太神楽についてです。
由来については「大槌町の郷土芸能」から
「末広町(旧向川原・松の下地区)に伝わる当、松ノ下大神楽の発祥は徳川時代に遡る。
年月等については明らかでないが、大槌代官所時代に盛岡の七軒町に在住する芸人が藩主南部家に伝わる三頭権現のうち一頭をもって移住してきたものであり、時の代官、この者達をお抱え芸人とし、時折観覧していたものである。
大神楽の踊(舞方)の中に庭を踏む(庭を使う四本がためとも言う)というものがあるが、これは主に武家屋敷の庭前で踊つたことから、このように名づけられたもので殿様の御前で舞う関係上、服装も踊子以外は全員上下(かみしも)を着用するようになうていた。
構成については現在略式に流れ、笛、金(どうまえ)となつているが、当時は太鼓、小鼓、三味線及び笛、金(どうまえ)からなつていた。踊子も現在は草履など一定されていないが、従来は一本足駄をはき、野ばかまを着用したものであつた。
尚、明治末期まで、それらの諸道具が保存されていた。
七軒町の芸人がもつてきたという権現の命名は鶴千代であり、年令八百年という南部家二六代主よりの墨付も保存されている。それによると岩手郡座ヶ畑藤原家に三回領りし内の一個にて世人七浦権現の一つなり、作人光雲とのことである。
この藤原家は南部侯のおかかえ芸人と推定され、録をもらつて庄が畑に在住していたものと思われる。
また、前述の盛岡七軒町というのは七人の芸人が住んでいたことから七芸町というものが、いつしかなまつて七軒町になつたようである。
以上の如く本来は殿様の御前で踊られたものが、当町いまだ開けない時代において神のお供に何をだしたらよいかといろいろ考えられた末、権現様は神に仕えるものであるということから祭典に際し行列に参加するようになつた。
現在は大槌稲荷神社と小鎚神社祭典に参列している。」
因みに、秋の例祭で大槌稲荷神社の神輿に供奉して町内を練り歩くのは町印といわれる四団体です。
安渡太神楽、安渡虎舞、松の下太神楽、上亰鹿子踊となっています、そのことからこの日もこれら四団体が奉納をした次第です。
動画でどうぞ。
