布佐神楽 楠公@第10回神楽共演石越大会
さて、本日は布佐神楽さんの楠公からです。
布佐神楽さんの由来については定本より
文久三年(1833)千葉菊治、鈴木門治が世話人となり、東磐井郡相川村(現一関市)字水上の千葉稀治、千葉作右ェ門の指導により、法印神楽を千葉忠之丞、千葉兵太夫に伝授された。
さらに明治八年松川村(現東山町)の法印管野典善師より法印神楽を学び、倭書記神楽の巻物を授けられた。
明治後半から大正初期に至り、法印神楽を基本にしながらも、地方の伝説、民話、物語等を神楽用に脚色したり、科白(せりふ)神楽等も演目に加え、この地方独特の神楽として名声を博して来た。
初代庭元千葉兵太夫で現在の庭元千葉慶一は一○代目である。
昭和五三年三月、川崎村指定無形文化財となっている。
とのことです。
岩手県の指定を受けてから益々洗練されてきたように思います。
楠公は、楠木正成と足利尊氏の軍勢が湊川で合戦をする物語で、南北朝の激戦の譜です。
しかしながら、室町時代になり足利義満の門前で能楽の祖である観阿弥が能を演じた際に自らの出自を秘匿したということが伝わっています。
それはなぜかというと、観阿弥の母親が大楠公すなわち楠木正成の妹だったからということ。そしてそのことが「観世福田系図」に示されているということです。
そして、後世になって能楽の桜井や楠露などに演目が起こされ、浄瑠璃・歌舞伎へと演じ継がれてきたものです。
南部神楽では浄瑠璃あるいは祭文・講談などから引いて神楽台本に編成されてきたようですが、現在ではこの演目を継承するのは瑞山流系統の神楽団体が多いように思われます。
楠木正成が年少の息子正行に国へ帰るように諭すが、正行は自分も出陣すると懇願する場面です。
さすが、布佐神楽さんは動員力にものを言わせて尊氏方6人、楠公方3人が舞台狭しと修羅場を繰り広げます。
もともとの神楽舞台はせいぜい2間四方、9人が暴れまわるには狭すぎますので、これはステージ用の演出といえなくもないですね。
追い詰められた楠公と弟正季が共に自害をいたします。愁嘆極まる場面です。
動画でどうぞ。
