羽田神社と七つ子参り
ということで、御田植神事が無事に終わり、禰宜さんから話を聞いたこともあり、羽田神社へ参拝することにいたしました。
御田植神事が行われた水梨地区から狭い舗装道路を車で上ること5分ぐらい、だんだん道幅が狭くなるうえに、最後は未舗装の道路になりましたが、ようやく社務所が見えてきました。
羽田神社さんの由来は宮城県神社庁から転載 ⇒羽田神社
今から凡そ1300年程前、奈良時代養老5年(西暦721年)に、行基により五穀豊穣・疫病閉塞を祈って創建された。大同元年(西暦806年)に田村将軍利成卿の建立ともいわれているが、これは再建のことではなかろうかと思われる。中世に下って建久3年(西暦1190年)、豊後守尾形三郎惟義によって再興され、以降廃れることなく今に至っている。尾形三郎惟義は、もとは緒方と称し、豊後国(今の大分県)の住人であったが、後に源義経に属し、義経の鎌倉追捕の際に姓を尾形と改め、これを追ってこの地にくだり、陣太刀一振りを寄進して自ら祭主の任に当たって一族主従の命運を祈ったといわれる。(奥羽観蹟聞老誌)。羽田神社はもとは波多権現、羽田山大権現、或は羽田三所権現とも称されて、県外にも広く信仰を集め奥東の古社として知られている。
ということです。
つまり、明治維新前は羽黒派の修験院で白照寺と号していて、その別当が現宮司の緒方氏ということです。
左の赤鳥居を登ると本殿、右奥が社務所です。ちなみに手前に建つ羽田神社の石塔は羽田孜氏の寄進でした。

この羽田権現はかつては気仙沼一体を霞場としていて、気仙沼湾外の太平洋上からも見える山として信仰を集めていたようです。
石段の中腹に大槌町の倉本産業さんが寄進した灯籠がありました。

御影石を研ぎだした立派な石段を登ると、本殿が立っており、その全面左右には巨大な杉の大木が2本、本殿を守護するかのように参拝者を見下ろしています。
説明板によると文治2年(1186年)尾形三郎惟義の息子二人が植えたものとの伝承があるそうで、「羽田神社の太郎坊、次郎坊の杉」として宮城県指定の天然記念物となっておりました。

そして、この神社にはもうひとつ重要なものがあります。
それは国の重要無形民俗文化財である「羽田のお山がけ」です。
お山がけの概要については宮城県のHPより転載 ⇒重要無形民俗文化財|羽田のお山がけ
羽田のお山がけは、7歳の男児が上羽田地内にある羽田山に登拝し無事成長を祈願する行事である。このお山がけは「親子お山をかけるな」といわれており、付添いの男性は子供の父親ではなく、祖父や親戚の男性がつとめることとな,ている。この行事の参加者は気仙沼市内はもとより、唐桑町、本吉町などからもみられ、広範囲に及んでいる。
お山がけを無事済ませると男児を中心に、親戚や近所の人を招いてオフルマイを行い、お山がけが無事済んだことを披露する。
この行事は、男児の無事成長を祈願して行われるもので、その参加者が広範囲に及ぶことや、またお山がけをしないものは、一人前の男とみなされず、沖のりもさせられないという所もあるなど、子どもが成長過程において必ず経験しなけれぱ成らない儀礼と考えられて、現在も盛んに行われている。
ということですが、七つ子参りの通過儀礼の行事として知られています。

七つ子山
ところで、同じ気仙沼市内の松岩に七つ子山があり、こちらは7歳の女児が振り袖姿で馬に乗って200m程の山へ登るという風習がかつてあったそうです。
昔話のようですが、二人の姉妹がいて、どちらが家督をつぐか父母で話し合ったが折り合いがつかなかった。
そこで夫婦がこの山に参籠し、満願の日に姉の方に白羽の矢がたちましたが、それを早朝に見つけた妹が矢を奪って、自分が家督となったそうな。ついに姉は故郷を離れて出羽の月山に登ってしまった。
以来、この七つ子と月山は中が悪く、七つ子に登ったものは月山参りを生涯行えなかったということです。
これは、羽黒派と本山派の争いを投影した、法印同士の霞場争いの話のようです。おもしろいですね。
