契約という結びつき
そして、一関市赤荻外山地区の天王祭の続きである。
そもそも私がここの集落の祭りに興味を持ったのは獅子舞が行われるからということばかりではない。
先に記した知人から聞いた話しであるが、ここの獅子舞の舞手は常に同じ者達が演ずるのではなく、年ごとに部落40戸を5つの班にわけて伝承しているということを聞くに及んで、その手の込んだ伝承方法を聞かずばなるまいと思ったからである。
下の画像は、この外山地区の自治会総会資料であるが、年間の神事祭礼の当番を5つの班に割り当てて執行しているということである。
通常この手の当番制は部落内の草刈りであったりごみ収集であったりするのだが、祭礼を班割で行い札回しを行なっている事自体が昔からの体制を現代に残しているといってよい。
朝食の場面で近くにいた当番のご婦人に話を伺った時も「私もここへ嫁に来るまではこのような行事があると思わなかった、毎年大変な思いをしているがそれが伝統だと思えば自然に行なっている」という旨の話をしていただいた。
伝承とはそうしたものかもしれない。
さて、地区内の結束とは何かを考える術として、山の神神社の拝殿内にこういった扁額があったことが特筆される。
これは日中戦争のさなかに日本軍の兵士三人が爆弾を抱えて敵陣に突入して玉砕したことを勇敢な行為として美化して取り上げたことに由来するものである。
この事件は昭和7年に起こったことであるが、戦意発揚のエピソードとして内地に伝えられ映画はいうに及ばず歌舞伎や浄瑠璃にも演じられるほどであったという。
しかし、よくよく考えると、三人の勇士が抱えた爆弾の導火線が短すぎて敵陣へ到着する前に点火爆発しただけということであるから、これは人為的ミスによる事故死にほかならない。
それをあたかも勇猛果敢な兵士の話に仕立て上げ、それを全国民に吹聴する姿勢が戦時下の体制の傲慢なところである。
とまあ、それはさておきここの外山地区でどのような縁者がおられたのかは知る由もないが、肉弾三勇士の遺徳を偲んで扁額を奏上したのは「外山契約一同」である。
契約講が昭和初年までは機能していたことの証左となっているが、その契約講が天王様の獅子回しに及んでいることははっきりしている。
外山地区の契約講の仕組みと祭りの伝承についてはまた明日へ続くのである。
