瀬峰神楽 大蛇退治
本日は瀬峰神楽さんの大蛇退治についてです。
その前に、瀬峰神楽さんの由来について、会長の門脇さんに電話でインタビューした内容から
「現在の瀬峰は、明治の中頃まで藤沢地区と大里地区に分かれていた。
藤沢地区には南部神楽の流れを汲む二つの藤沢神楽が存在していた。
氏家慶喜氏と細川勇三郎氏をそれぞれ座頭に活動していた。しかし両神楽とも後継者に恵まれず、大正の中頃には自然消滅状態となり、実に五十数年もの間途絶えていた。
昭和四十六年四月、当時の瀬峰町文化財保護委員の木村二郎氏が、藤沢神楽を復活させようと各方面に提唱していた。おりしも同年十二月十八日の河北新報に、登米市中田町宝江新田の「舘神楽」が紹介されていた。それによると舘神楽の元祖は、瀬峰の藤沢神楽であると判明したと書かれていた。これを機に木村氏は更なる呼びかけをし、舘神楽に指導を仰いで練習を重ね、昭和五十年一月十九日「瀬峰神楽保存会」(初代会長鎌田里見、会員十三名)の名称で設立発足し現在に至っている。」
ということで、その舘神楽は加茂流を称しているとおり流神楽を継承しているので、幕末の藤沢神楽自体が流神楽だったことなのかもしれない。
流神楽であったことの片鱗は面や装束に残っている。
手名椎足名椎と櫛名田姫
素戔嗚尊はべしみ面
大蛇が邪面に真っ赤な襦袢と袴で衣を担いで現れる。法印神楽の出で立ちに近い。
刀ではなく打杖での戦いも法印神楽の影響が見て取れます。
法印神楽ではこの後、客席に降りて大乱闘になる。
めでたく大蛇を征伐して素戔嗚尊の和歌が唄われ、そして千代の御神楽となります。
八雲立つ出雲八重垣妻込に 八重垣作るその八重垣を
動画でどうぞ。
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