城生野神楽 一の谷合戦首取りの場
今日は旧暦の六月朔日、水無月のはじまりですが、午後から集中豪雨となりました。梅雨も末期なのでしょうか。
ということで、本日は第26回あやめ祭り神楽大会から城生野神楽さんについてです。
実は城生野神楽さんは当ブログでは初出なので定本から由来を説きます
「嘉永年間(一八四八)富野城生野の富助が岩手県西磐井郡萩荘村市野々、自鏡山の山伏神楽を習得した。後部落の若者達に指導して城生野神楽を創設した。
以来城生野神楽は、山伏神楽の正統を保っているので宮城県北の神楽の総元締である。
初代庭元千葉幸之進、現在の庭元加藤義勝は五代目である。
昭和三六年一一月、築館町の無形文化財に指定されている。」
とあります通り、幕末に自鏡山の法印神楽を習得して以来、明治中期に阿久戸神楽に伝承したのを初めに、栗原地方の十数団体に神楽伝授を行なってきた団体であります。
さて、演目の一の谷合戦首取りの場ですが、熊谷直実が平敦盛を逃そうとするところを平山武者所が謀反の心ありと責め立てる場面から始まります。
熊谷直実はいたしかたなく敦盛を波打ち際から呼び寄せて、首を討ち取ろうとするが、我が子と同じ年の敦盛の命を奪うことが不憫で躊躇します。すると敦盛が「討たぬなら、自ら切腹するまで」と。
熊谷直実は泣く泣く敦盛を討ち取ることに。
このあと敦盛が冥途への旅立ちに神仏に祈る場面で胴取りの神楽歌がかかりますが、泣かせます。
「念仏称えよ敦盛公
西方の弥陀如来 南無阿弥陀仏
東は大日如来 南無阿弥陀仏
南は薬師如来 南無阿弥陀仏
北は八幡大菩薩 南無阿弥陀仏」
実は熊谷親子は一の谷合戦で抜け駆けをしたものの、大した手柄もない内に息子の小次郎直家が負傷したりしている。功を焦った直実がようやく見つけた手柄が悲劇の元となった次第。人の運命は糾える縄の如しといえり。
後年になって織田信長は幸若舞の「敦盛」を好んで、自らも舞い歌ったとされています。
「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ」
これは、熊谷直実が出家して蓮生坊になるときの思いを歌ったものと言われています。
動画でどうぞ。
