奥山行上流餅田鹿踊 雌鹿隠し
ということで、今日はみちのく鹿踊大会ながらおらほの江刺の餅田鹿踊さんについてです。
奥山行上流餅田鹿踊の由来について当日のパンフレットより
「享保12年(1727年)8月16日江戸上屋敷にて御出入司大町清九郎様の御取持にて、御上覧の栄を賜り「智補院養老六字踊」と仰せ付けられ国元で何時なりとも稽古をするようにと前幕に九曜の紋、日の丸の開扇、竹に雀、袴の後口にカニ牡丹、前口に地車の御紋を染め分け、御出入司大町清九郎を通じ郡奉行、代官、大肝入と伝授伝承後、大肝入鳥畠兵太夫どのより岩手県東磐井郡東山前田野村肝入善右衛に伝承、宝暦5年7月江刺郡鴨沢村の甚左衛門に伝承、更に明治44年10月に鴨沢六代目千葉氏より江刺郡岩谷堂町餅田下苗代沢地区(現奥州市江刺区岩谷堂下苗代沢)に伝授伝承され今日に至っている(秘伝巻物より)。
なお、現称されている「奥山行上流」の命名の詳細は判っていない。秘伝巻物の「鹿踊定書之事」には「奥山流鹿踊」の朱印がある。
前幕の掛梯子最上部に五三の桐の御紋の染分けは、大正6年岩手県公会堂において皇太子殿下(昭和天皇)の御台覧の
栄を賜るなどがあり、大正8年4月、宮内庁より装束の前幕九曜の星の上段にご紋染分けを御許しになった旨、岩手県より通達になり、同年7月染め替えしてより現在に至っている。」
とあります。
大変くわしい解説なので、加えて説明するまでもありませんが、中立ちと牝鹿のみ咽印が赤の井桁九曜紋となっているのが行山の特徴といえます。
側鹿二頭が雌鹿を隠している所へ中立ちが進む場面ですが土佐踏みの様に足の甲で地面を擦る所作が入る。
同じ行山でも宮城県北のものとは趣を別にしている。行山流の北限に近いせいもあるのか。
演目に回向踊(知補踊、養老踊、六字踊)があるというが、未見なのでお盆にでも見に行きたいと思っています。
動画でどうぞ。
