鶯沢神楽 弁慶 安宅の関 @神楽共演石越大会
本日は鶯沢神楽さんの弁慶安宅の関について
その前に、鶯沢神楽さんの由来について定本より
「明治初年、玉井豊之助、小野寺久五郎の両人が世話人となり、岩手県西磐井郡萩荘村達古袋神楽の師匠を招き、神楽の伝授を受け日向神楽を創股した。
戦前、戦後舞方が少なくなり中断していたが昭和三九年、町教育委員会が郷土芸能後継者盤成識習会を開催した。講師は小野寺捨男、小野寺東策の両師匠の指導であった。
これを機に鴬沢神楽保存会を組織し現在に至る。
なお、明治一八年、二○年の二回にわたり、伊勢神宮に神楽を奉納したという。
また、大正年間、田谷神楽(江刺市愛宕)の指導をしたともいわれている。
初代庭元玉井豊之助、現在の庭元岸湊は六代目である。」
ということなそうです。現在の代表者は高橋長人さんです。
梶原景時の讒言によって兄頼朝から追補令が出され、追われる身となった義経主従が平泉へ落ち延びる途上での話。
義経記に記された物語を15世紀後期に観世小次郎が能「安宅」として編み出した。さらに、天保11年に三世並木五瓶の脚色により江戸河原崎家で七世市川団十郎により歌舞伎「勧進帳」として上演され現代に続く。
安宅の関を前にした義経
そして弁慶
関守の冨樫泰家に正体を怪しまれ、山伏問答の末に白書の勧進帳を読む場面。緊張感が走ります。
ようやく冨樫を納得させたかと思ったら、最期に控えていた剛力の顔に見覚えがあると怪しまれます。
弁慶は泣く泣く金剛杖で打ち据えます。(あっ、刀が・・・)
義経主従と知って冨樫は熟考の末に見逃すことに
「縄をかけるはたやすいが、ここが情けのかけどころ」拍手が起こります。
無事に関を通り抜けたあと、侘びをいれて自害しようとする弁慶に「ここまで継信、忠信もなくし、静御前とも生き別れ、この上おまえまでなくしたら私はどうしたらよいのか」と留める義経。
負け修羅です。寂寞とした終末となっております。
動画でどうぞ。
