長下田神楽 東下り 軍勢借り @神楽共演石越大会
本日は長下田神楽さんの東下り軍勢借りについて
その前に、長下田神楽さんの由来について定本より
明治26年(1893)、岩手県西磐井郡花泉町の上油田神楽の南部神楽師 佐藤和三郎を師匠に招き、五穀豊穣を祈願して「橋向神楽」として創設されましたが、その後、二つに分かれ、昭和24年(1949)池田清治を師匠に「長下田神楽」として継承され、現在に至っています。
とあります。
さて、演目の東下り軍勢借りですが、これは義経が平氏打倒を掲げて平泉から鎌倉の陣へ馳せ参じる際に、大鳥城(福島県の飯坂付近)に佐藤庄司を尋ねて、一騎当千の息子を借りたいと所望したという内容です。
義経は気が引けたのか、佐藤庄司に二人の息子のうち、佐藤家の跡が絶えぬように一人のみ戦に借り申したいと言い出したことから兄弟喧嘩が始まります。。
稀代の勇将の家来になるのは自分だと言いはり、お互いに譲りません。
そこへ父庄司は、お前ら二人共義経様に従軍せよと命じる。
実は、ここからのセリフが泣かせるところとなっている。
父庄司は常の習いとして「一の矢、二の矢は簡単に防げても、三の矢は必ず管矢がくるので、小太刀を抜いてこれを打ち落とすべし」と言い聞かせます。
しかし、結果として後日に屋島の合戦で継信は能登守教経が放った管矢で命を落とすことになります。
演目「継信の最期」でも弟忠信がこの時の父の忠告を思い出して兄継信に語りかけます。
ここが涙を誘う場面となっています。
これを能の演目に例えて言えば負修羅となります。
動画でどうぞ。
