達古袋神楽 屋島合戦 継信忠信訪ねの場@延年閣
本日は延年閣での南部神楽公演から達古袋神楽さんの八嶋合戦継信忠信訪ねの場について
達古袋神楽さんの由来は定本から
明治二年の火災で記録を失ったので資料はないが伝える所によれば、八幡神社は田村麻呂公の勧請といい、康平五年(一○六二)八月一五日再建の棟札もある。
八幡山常学院は、京都本山派の相模坊が、文明一○年(一四七八)開設し、古くから八幡神社の奉納神楽として法印神楽が舞われて来た。
なお弘化年代(一八四四)に神楽も盛んになり、明治以降には、胆沢地方、宮城県北、栗原郡、玉造郡等にも伝えられた。
明治以前は常学院が宮元となり指導に当ったが、以降の歴代師匠は、明治一一年小野寺伊三郎、明治二○年阿部徳太郎、明治二五年小岩勝蔵、明治三○年小岩利右エ門、小岩彦三郎、大正九年~昭和三八年まで阿部長治、以降阿部孝が指導に当り後継者の養成に当った。
初代宮元常学院、二代小野寺伊三郎、三代阿部徳太郎、四代小岩勝蔵、五代小岩利右エ門、六代小岩彦三郎、七代佐藤勘右エ門、八代~一二代阿部長治、一三代阿部孝、一四代小岩勘一である。
とあります。
成立は弘化年代ともいわれ、明治初期に宮城県の栗原地方の多くの神楽団体を指導した他、岩手県の胆沢の狼ヶ志田神楽や東山の竹沢神楽という系譜の端緒となる団体にも指導している。
当時の神楽は今とは大きく異なっていたとは思えるが、広く伝承されるような神楽であったことが想定される。
義経さん
能登守教経が義経に襲いかかる そこへ主君をかばって継信が管矢を受ける
深手を負った兄継信を探し当て駆け寄る弟忠信
動画でどうぞ。
