小島願人踊 in 伊達な杜舞台
という訳で、今日は念願の仙台・宮城DC伊達な杜舞台を観に仙台へ出かけました。
会場は勾当台公園と仙台市民広場で、演目によって行ったり来たりして、芸能三昧な一日でした。
あぁ~眼福な一日。
今日のトップバッターは、かねてから何としても見たかった小島願人踊でした。
願人踊と言えば秋田県八郎潟町一日市のものが有名だが、ここでも藩政時代に願人坊主が伝えた芸能であることが記録されている。
ここ3日ほど秋田の祭りを取り上げたのも、実はこの願人踊り繋がりでブログを書きたかったがためである。
秋田の願人⇒宮城の願人 うまくつながるか?
由来については、平静25年3月に発刊になったばかりの「登米市伝統・伝承芸能記録保存」誌より引用します。
「江戸時代の中頃、願人坊と呼ばれる半僧半俗の遊行僧たちが、伊勢神宮参詣の代参をしながら諸国を巡り歩いたとき、伊勢音頭や住吉踊りを主体とした唄や踊りを演じていたのが「願人踊」と言われています。
江戸時代末期、小島地区に滞在した願人坊たちから習い覚えた芸能の一つで、五穀豊穣を祈る踊りとして演じられてきましたが、時を経るにつけ次第に信仰心から離れ、座敷芸へと変遷し、現在は酒席の余興芸として「甚句」や「おいとこ」などとともに踊り継がれてきました。」
保存会の方にいただいた歌詞を下の方に掲載するが、様々な大道芸(語り物)が積み重なっている感じがする。
更には、この芸能はもともと大道でやっていたものが、幕末明治に至って座敷芸(宴席芸)に変遷し、華やかで洒脱な音曲歌詞を伴うようになった姿が見える。
尚、6番目の「伊勢はな」と7番目の「道者願人」との間に「ちょぼくれ」が入るのだが、これについては非常に重要な問題を含んでいるので明日に取り上げます。
動画でどうぞ。
小島願人踊 歌詞
1番 願人はじまり
オイ ハア願人はじまり(ソオダンヨオ ツガアイナ)
キテ ササーヤァートーコー セエーエー ョォィヨー ナァー
(ハア アリャリャンノ)キテ 平レハノ ナアー アッササー
ヤハン サンノオ セエーエー(太鼓)(ハァ マダマダ)
2番 目出度な
目出度なァー 目出度のー若殿様がな― (ハア ョイコイ)
御巡業なアー 益― 々 ハア やんで御目出さ―
キテササー ヤアートーコー セエーエー ョォィーヨ ナアー
(ハア アリャリャノ)キテ コレワノ ナアー ア ササー
ヤハレ サンノオー セエィエー(ハア マダマダ)
3番 奴さん
奴さんよ― どちら行く(ハア お旦那お迎えに)
さ―ても 寒いのに わしぃ一人
ハァ 雪の降る夜も 厭わずに(お供はつらいね)
いつも 裾のほうが寒ざらし
アリャハン キテション コリャハン トコトン
何としょうぞうえなぁ― (ハア マダマダ)
4番 姉さん
姉さんよー 本懐な(ハアヨイヨイ)
きぬぎぬのー 言葉モ 交わらさんの 明日の夜に
裏の窓から わし一人― (合図はよおすか ハア ヨイヨイ)
首尾をよくして― 会いに来るぞえ―なあ―
アリャハン キテション コリャハン トコトン
実に 本懐なァー(ハア マダマダ)
5番 お客さん
お客さんよ― どちら行く(お女郎買いに参じます)
さあても― 綺麗な―身の回し― ぁ―だな 深川の 送り船
(いづくなりとも 行かしゃんせ)
桟橋― 苦もなく― 昇るじゃないか―ぃな
アリャハン キテション コリャハン トコトン
こけな 女郎買いなァ(ハァ マダマダ)
6番 伊勢はな
伊勢は―なァ 津で持つ 津はい_せぇ_で持つな(ハァ ヨイヨイ)
尾張― ナーァー 名古屋は ハァ ャンデ城で持つ
キテ ササー ャァ_卜_コー セェ_ェー ョォィーョ ナァー
(ハア アリャリャンノ)
キテ コレヮノ ナァー ァッササー ャハレ サンノオ セェーェ_
7‐ 5・5・7(スチャラカ ポコ ポコ)
7番 道者願人(オィ ピーで声)
ハア 道者さんはじまり(ソォダンヨオ ツガアイナ)
伊勢のなァー道者さん はばかりながらも 泊まらんせ―
二階もどんどん 開いている―
畳の表も良いそぅだぁ 続いてぁんどん 張り替えて―
お茶も―なぁ― 新茶で― 旅籠銭もヤスゥィナ ソリャ
お泊りい ャート_コー セェ_ ョォ_ィョー ナァー
(ハア アリャリャンノ)キテ コレワノー ナァー
アツ ササー ャハレ サンノオー セィェー
