fc2ブログ
2013.03.06 | Comments(2) | Trackback(0) | カテゴリ神楽

富沢神楽 法童丸母子対面の場

今週に入って、朝の通勤時に北帰行の準備をする渡り鳥の群れを目にするようになった。
今年の寒さが一際だっただけに、なんとも待ち遠しかった風景ではある。


さて、今日は富沢神楽さんの法童丸母子対面の場からです。

富沢神楽さんの由来については定本から

「明治二○年頃、蕎麦沢の佐藤林之丞が庭元となり、西磐井郡金沢村飯倉神楽の小野寺忠七師匠(飯倉から真滝小林に婿養子に来た人)を招き、部落の若者達に神楽の指導を行ない富沢神楽を創設した。
明治時代、初期の人達が二期、三期と舞人の養成を図ったが大正初期に絶えた。
昭和三年、佐藤民治が発起人となり佐藤甚之助が庭元となり、飯倉神楽より高橋衛師匠を招き佐藤民治と共に神楽の指導を行ない、富沢神楽を再興した。
初代庭元佐藤林之丞、二代三代佐藤甚之助、四代佐藤利男、五代千葉清人、六代佐藤登である。」

とありますが、現代の代表者は佐藤徹さんです。

さて、演目は心ならずも敦盛を討った熊谷次郎直実が敦盛を葬った後出家して蓮生坊と名乗った。
蓮生坊は法然上人の弟子となり、加茂の明神下り松の下で拾った敦盛の子法童丸を七歳になるまで育て上げた。

宝童丸があまりに母を恋しがるので玉織姫と対面することになった。



めでたく対面となったが、母玉織姫は法童丸の実の父親は蓮生坊に討たれたのだと告げると法童丸は驚く。

DSC01616.jpg

父の仇であれば討つべしと思案した法童丸であるが、思いい悩む。

「ここが思案のしどころなり」

DSC01621_20130306201301.jpg

親の仇と蓮生坊に斬りかかる法童丸に対して、法然上人は例え親の仇であろうともここまで育ててもらった恩義を忘れてはならぬと諭す。
和解した三人はめでたく千代の御神楽を舞うのでした。
そして法童丸は父の眠る一の谷へと急ぐのであった。

DSC01622.jpg

動画でどうぞ。


テーマ:伝統芸能 - ジャンル:学問・文化・芸術

2013.03.06 |

«  | ホーム |  »

プロフィール

祭りの追っかけ

Author:祭りの追っかけ
祭・・・それは祈り、畏れ、そして縋り付くばかりの信仰、神人共生の歓びの象徴。さて、明日のエネルギーの糧を求めに彷徨おう。

カレンダー

02 | 2013/03 | 04
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31 - - - - - -

月別アーカイブ