達古袋神楽 弁慶安宅の関
本日は南部神楽シンポジウムin南股2012から達古袋神楽さんの弁慶安宅の関を。
由来については「南部神楽系譜報告書」より抜粋
明治二年の火災で記録を失ったので資料はないが伝える所によれば、八幡神社は田村麻呂公の勧請といい、康平五年(一○六二)八月一五日再建の棟札もある。
八幡山常学院は、京都本山派の相模坊が、文明一○年(一四七八)開設し、古くから八幡神社の奉納神楽として法印神楽が舞われて来た。
なお弘化年代(一八四四)に神楽も盛んになり、明治以降には、胆沢地方、宮城県北、栗原郡、玉造郡等にも伝えられた。
明治以前は常学院が宮元となり指導に当ったが、以降の歴代師匠は、明治一一年小野寺伊三郎、明治二○年阿部徳太郎、明治二五年小岩勝蔵、明治三○年小岩利右エ門、小岩彦三郎、大正九年~昭和三八年まで阿部長治、以降阿部孝が指導に当り後継者の養成に当った。
初代宮元常学院、二代小野寺伊三郎、三代阿部徳太郎、四代小岩勝蔵、五代小岩利右エ門、六代小岩彦三郎、七代佐藤勘右エ門、八代’一二代阿部長治、一三代阿部孝、一四代小岩勘一である。
昭和四七年阿部長治は一関市教育委員会より民俗芸能保持者の指定を受けた。
現在の庭元さんは小岩恭一郎さんである。
牛若丸 弁慶


牛若丸が兄頼朝の仕打ちが兄弟の義理を欠いたものだと愁嘆を表す場面。
これは他の団体ではない表現ではなかろうか。

安宅の関といえば東大寺勧進帳を読み上げる場面である。
パネルディスカッションの中で小岩恭一さんが「昔は装束も十分でなく、安宅の関で鈴懸をまとうようなこともなく神楽を演じていました」という言葉が心に残りました。
なるほど、テレビの時代だから装束なども即物的になってきたのかもしれない、奥浄瑠璃の時代には語りだけで表現される物語の世界を聴衆は頭の中でシーンを思いめぐらして楽しんだのだ。むしろその方が忘我の境地で遊ぶ心地がしたのかもしれない。(今の時代の方がつまらないことなのかもしれない)

佐藤継信・忠信が亡くなり熊谷直実も去り、残る弁慶に亡くなられたら私はいかにすればいいのかと嘆く場面。
無常感が漂いながらも忠義の情に拍手が起こる。
何度見ても安宅の関は「武士の情け」の世界なのだなぁと思う。

動画でどうぞ。
