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2012.12.04 | Comments(0) | Trackback(0) | カテゴリ神楽

牧澤神楽 五條の橋

本日は南部神楽シンポジウムin南股2012から牧澤神楽さんの五條の橋を。

その前に、昨日は奥浄瑠璃と南部神楽発祥についての関連性を述べたが、その実際はどうだったのかということに触れてみる。

「南都田郷土史 後編」の第六節から抜粋する
郷土芸能については色々種類も多く我が南都田において最も盛んだったのは明治の末期より大正時代であった。その種類も種々雑多である、まず主としてはチョボクリ、八人芸、浄瑠璃、歌念仏などは最も古く田植踊、剣舞、鹿踊、神楽、芝居、漫才とうも多種あって他に恵比寿舞、七福神舞、穀檀舞等あり・・・

枚挙に暇がないぐらいたくさんあったということだ。ちなみにチョボクリとは浪花節の前身、八人芸とは声色を変えて語る一人芝居、浄瑠璃は奥浄瑠璃のことである。
とここでようやく奥浄瑠璃の話題に進むが、南都田つまり胆沢地方でも奥浄瑠璃は盛んに行われ、奥浄瑠璃の流派の一つに「胆沢節」があるぐらいである。最後の浄瑠璃語り手の佐々木武人翁は胆沢郡若柳の人である。
また一方の大きな流派は「川下節」と呼ばれ北上川流域を石巻方面まで下っていく経路上で隆盛を極めたもので、花泉の語り手の佐藤良伯さんによれば川下節の方が弦の調子も高く勢いの強い節回しであったとのこと。浜に近いから威勢のいいものが好まれたのかもしれない。

そんな奥浄瑠璃であるが、門付の流れはこんなふうであったとのことだ。
農閑期の12月ぐらいになるとお馴染みの村里に出かける。すると贔屓の宿となる家から声がかかる。
夜の七時頃になると噂を聞きつけた近所の人たちが「じょろりこ聞ぎさきた」と集まってくる。
木戸賃は一晩で十円ぐらいだったとのこと。
浄瑠璃を語り始め、間には余興で早物語(餅合戦など)も交えながら、終わるのは深夜の1時頃、そのころには宿主から簡単な料理が出される。(浄瑠璃語りは夕飯を食べると腹が膨れて良い声が出ないから夕御飯は食べない)
次の日は昼御飯をご馳走になる、すると次の宿から迎えが来て手を引かれて渡り歩くという。
特に好まれた演目は源平物でとりわけ牛若東下り、それから常盤御前鞍馬破り、信田妻、田村三代記、 掃部長者などなど

今では録音で聞くしか無いのであるが、一昨日のブログで書いた岩手県立図書館所蔵のCDでは東下り、餅合戦、菅原天神記、田村三代記を聞くことができる。
今の人が聞くと浄瑠璃というよりは浪花節に近い感じがするのでないでしょうか。機会があったらぜひ聞いてみていただきたい。

ところで、私はこのCDで奥浄瑠璃を聞くまでは、南部神楽のセリフの節回しも浄瑠璃からきていたのかと思っていたが、さにあらず。やはり浜神楽の神諷の影響と後世になってから民謡の節回しが混交されて醸成されたものと思われる。

というところで、牧澤神楽さんの五條の橋

  牛若丸

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  武蔵坊弁慶

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 先のCDの対談(森口多里と北峯一之進)の中で、奥浄瑠璃が衰退した原因はと言う問いに北峯翁は「大正になってラジオが出てから浄瑠璃聞く人少なくなりぁんした」と答えている。
たしかに手軽に聞けるラジオもそうだし、神楽のように目の前で綺羅びやかな衣装を纏った勇者が舞う舞台を見れば浄瑠璃を聞くこともなくなるだろう。
しかし、神楽だけはどんなに世の中のエンターティメントが変遷しようが力強く残って行くような気がする。

DSC02109_20121204214937.jpg

動画でどうぞ。

テーマ:伝統芸能 - ジャンル:学問・文化・芸術

2012.12.04 |

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Author:祭りの追っかけ
祭・・・それは祈り、畏れ、そして縋り付くばかりの信仰、神人共生の歓びの象徴。さて、明日のエネルギーの糧を求めに彷徨おう。

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