奥野流富士麓行山北方鹿踊 先庭
今日は暦の上では二の酉、月遅れのえびす講となっていますが、冬の風が吹いてきました。
というわけで、奥野流富士麓行山北方鹿踊について。
由来等については「行山流鹿踊」(及川宏幸氏著)より抜粋
千貫石の宮舘治郎左衛門から永徳寺に伝わり、そこから弘化2年に北方の岩渕倉之助に伝授されている。
明治22年、大正6年、と再興したが昭和28年以降中断し、その後昭和53年に再興した。

装束については、前幕は咽印と脇に九曜紋が入るが中立・雌鹿のみ朱色で他は白。前幕の脇には竹雀・梅鉢・三つ巴、裾に市松模様と横に二本線が入る。
袴は中立・雌鹿が五色の市松で他は地車。
特徴的なのは流しで、中立ちと雌鹿は九曜紋の下に朱色で不動明王の種子(カーン)が入り、他は白の種子。
中立ちは富士麓行山の文字、雌鹿は「陸奥乃久乃志乃婦牝鹿の免可能左登勢を楚路へ天遊婦鹿可毛」の和歌が入る。


中立ちのザイキリですが、角が上向きに拵えてあるので、頭を振り上げた時にザイが両角に掛かって残ります。
これが、非常に趣があったよいです。(多分意図的にやっていると思います)

ところで澤田本には水沢の佐倉河は北方から分家した踊りで鶴羽衣とは相弟子である。ところが鶴羽衣では北方は鶴羽衣から別れたもので佐倉河は鶴羽衣の孫弟子である・・・という行がある。
これは系譜の話というより「ヨエ取り」のことのようである。
昔から踊り手が足りなかったり、継承が途絶えそうになった時に相互に教えあい助け合ったことのようである。
また、そういった交流があったため、◯◯流といえど多少踊りの方が交じり合ったりするのかもしれない。
当日のパンフレットによるとここも後継者不足で難儀しているとのことです。

動画でどうぞ。
