鶴羽衣鹿踊 荒金
昨日に引き続き稲瀬の金津流の踊り組である鶴羽衣鹿踊から荒金を。
由来については「江刺の芸能」から抜粋
慶長12年仙台城下宮城郡七北田の藤九郎から鶴羽衣の初代万吉が伝授を受けた。その後、三代万吉(俗名要吉)が亨保3年に南部仙台御藩境御番所の武士頭として赴任していた仙台藩士犬飼清蔵から伝授されたとある。
巻物は犬飼清蔵から宮城郡国分松森村の嘉左衛門に譲られ、小野利源太が文化8年にその巻物の筆者を許され、、その一巻を文化11年に万吉が授与されている。
そして息子の喜四郎へ継がれたが、その門弟の一人に伊三郎という大変踊りの上手な人が居り、踊りの師匠として地元の鶴羽衣はもちろんのこと、三照や広瀬歌書(ともに江刺)にまで広く伝授したとが墓石に記されてある。
供養碑の中で最古のものは文化5年のもので巻物を伝授される以前から踊られていたことがわかる。
当踊り組は慶長年間以来三百数十年絶えることなく伝統を守り芸能保存に努めてきたことにより昭和38年に岩手県無形民俗文化財の指定を受けている。

とある、伝授の年代は昨日の石関と同格といってよいだろう。
しかし、同じ金津流を称して隣同士の集落なのに鶴羽衣の踊りは他の金津流組と若干異にするところがあるという。
澤田本によると「胆沢郡佐倉河の行山奥野流の鹿踊の口伝によると佐倉河踊りと鶴羽衣踊りは相弟子だったし、明治の中期まで佐倉河から鶴羽衣へ、鶴羽衣から佐倉河へと師匠や踊り子が農閑期を利用してお互い練習に努めていた(中略)いかにも良く似ているところを拾ってみると、模様は違っているが装束の拵えから鹿頭の大きな厚味造りや、袖幕の後ろを長しに沿わせて結んでないのや、歌出しとその節回しなどよく似ている。」
と、
確かに石関と鶴羽衣の装束の違いといえば中立・雌鹿の咽印に井桁が有るなしや、側鹿の袴模様が重ね地車と矢車の違いぐらいか。
が、踏み足等に大原流のような感じも。

伝承する演目は、春駒、女鹿かくし、山隠、十三、案山子踊り、鉄砲踊り、鹿嶋立ち、此の程、入れ違い、とさ
とあるが、最近では演ぜられることの少なくなっているものもあるのでは。

踊り終わって駐車場で着替えです。この日の雌鹿は小学生でした。寒い中ご苦労様でした。

動画でどうぞ。
