笹崎鹿踊 大船渡市郷土芸能まつり
今日は大船渡市郷土芸能まつりから出演順ではなく鹿踊を比べてみるということで、笹崎鹿踊について
笹崎鹿踊も津波の被害を受け頭装束の全てを失ったが全国からの支援を受けて復活を遂げた団体です。
頭装束の再興の過程はとりらブログに詳細が掲載されております。
リンク⇒http://torira.exblog.jp/16051239/
踊り組の由来については森口本「岩手県民俗芸能誌」より抜粋
大船渡市教育研究所編「郷土資料調査」第一集によると、明和五年八月九日、日頃市村坂本沢屋敷の理惣太なる者が陸前本吉郡南方清水川村(現志津川町)中左屋敷の弥惣次という人から七代の相伝を受け、大船渡町笹崎大草嶺家の婿養子となり、初めて同部落に伝えた。
その後同家において七之助、芳蔵、門太夫の四代を経て現在の中立笹崎一三氏(門太夫弟)に及んだという。
わたしの古いノートには本吉方面に出稼ぎに行っていた理惣太に伝授したのは四郎兵衛から七代目の師匠弥惣次だとあるが、この四郎兵衛は伊藤伴内持遠の門下であった。
弥惣次という名は舞川に伝わる巻物の「代々之先生之部」には出ていないが、本吉郡の入谷村の行山躍は同郡の清水川村に伝えられたのであろう。理惣太は相伝を持参して日頃市村坂本沢に婿にきて鹿踊を伝えたのだとも聞いている。
これを書くに当たって念のため笹崎一三氏に問い合わせたところ、坂本沢の理惣太が大船渡村字笹崎の笹崎家(家号は(大草嶺)に婿養子に来て、坂本沢とは別に笹崎鹿踊がおこり、笹崎家以外の中立としては、芳蔵ののち七蔵が幼かったため久作というのが一期踊ったという。現在は一三氏の後をついで日野昭氏が中立をつとめているとのことである。笹崎氏から写しを送って下すった相伝状は次の通りで、やはり弥惣次は四郎兵衛から七代目の師匠であった。

笹崎鹿踊は本来9人踊りで中立ち・雌鹿の後ろに「シガリ」という役が並んでいたが、現在は真ん中の雌鹿が無くなり8人踊りとなっている。

頭の前幕には中立ちだけ仰山と白く染め抜いてありその他は井桁に九曜紋の咽印をつけて、左右に鶴丸や藤丸紋をつけている。
前幕は黒の地に地車、中立ちだけは浅葱地に地車(以前は伊勢海老)となっている。
大口には伊勢海老、流しには紅葉に鹿図で、中立ちのみ「友達が遊び頭の庭なれば してがこぼれて足に絡まれ」の和歌が書かれている。

踊りの順序は次のとおり
渡り拍子 - 太鼓の調べ - 門誉め - 入羽(ぶっこみ) - 太鼓の調べ - 庭誉め - ザッザコ入り - 回り切り - 回りきり長歌 - 引き連れ鹿の子 - 鹿の子 - 寄せ -うぐいす - 打ち切り - 渡り拍子
他に役踊りとして鉄砲踊り、三人狂い、等がある
全体に動きが早く、威勢のよい踊り様は浜の芸能といった感がする。
見事に息のあったすばらしい鹿踊である。

動画でどうぞ。
