菅生田植踊
大船渡市郷土芸能まつり 平成24年11月3日
今朝は、西の山並 駒ケ岳や横岳連峰の頂が真っ白だった。
空には白鳥の一群が飛行していた。 冬到来といったところでしょうか。
さて、今日から11月3日に行われた第42回大船渡市郷土芸能まつりからいくつか取り上げてみます。
菅生田植踊について由来は当日のプログラムから
今から200年前、大船渡村下船渡の人が胆沢郡に赴いて踊りを習い覚え、近辺に披露した所、これを見た立根村菅生と下欠地域の若者が自分たちも習い覚えて踊ろうということで始まった。
昭和10年、大船渡市立根町の菅生と下欠の両地域の青荘年たちで組織された修養団体の「国旗会」が事業の一つとして明治時代に当地域の人達によって踊られていた田植踊りを復興させ伝承に取り組み、踊りの体験者長老3人から指導を受け、昭不□11年2月1日田植踊り復興第一回発表を「菅生・下欠経済更生記念田植踊」の大きな職を掲げ、村内を巡り踊り多くの観衆から大喝采を受けたと記録されています。
昭和12年2月には盛六郷を6日間に亘つて巡り踊つていますが、昭和13年から昭和22年まで戦時体制の影響や第二次世界大戦等で一時中断したが、昭和23年村内を巡り踊り再開を果たした。
とある。

踊りの構成は口上を述べる「馬子僧」三人と、羯鼓太鼓を打ち鳴らす「太鼓打」が五人、田植えの仕種で踊る「早乙女」が七人である。これは踊り子を七五三で揃えるためという。
馬子僧の口上は次の演目について説明するもので仙台田植えの弥十郎に相当する。
口上の内容は「代かき」、「えぶりすり」、「投苗打」、「御田の神」、「ご祝儀のお礼J、「間の狂言」、「最後のお喜び」
となっている。

演目は「あさはか」、「おしょうがつ」、「くろかわ」、「かまくら」、「ゆうぐれ」とがある。

胆沢の方から習ったとあるが、現在では胆沢の田植えで花笠をつけた早乙女は残っていない。
とすれば、この菅生のものは真澄のみた徳岡の田植踊の原型を今に残していると言えなくもないだろう。

動画でどうぞ。
