上沼加茂流法印神楽 宮鎮
昨日は重陽の節句で各地で神事祭事が行われ、体が4つ欲しいぐらいに諸事が重なった。
といったところで、かねてよりこのブログにコメントを寄せていただいている富主非女さんのご紹介で宮城県登米市中田町上沼に鎮座する上沼八幡神社秋季例祭に参りました。
この神社は天喜元年(1053)源頼義・義家の創建と言われている。
頼義・義家親子が奥州平定に際して三度陣を敷き、戦勝を祝って武具を奉納したことから、祭礼では子供たちの剣道大会が境内で開かれていた。
そして、お目当ての上沼加茂流法印神楽の奉納が専用の神楽殿で行われた。
上町法印神楽の髙橋会長さんや白浜神楽の千葉会長さんも見えていて神楽談義に花が咲く内に舞台では神事が始まりました。ご両人には沢山のことを教えていただきました。感謝いたします。
こちらの神楽殿では古式通り八重垣を廻しています。欄干に刺した幣束は結界を張ることの他に舞手が面を被っていると床の状況が分からず転落していまうのを防止するためもあるということでした。
最初の演目は宮鎮です。天照大御神が葦原の中津国を麗しく治めた様子を表した神楽と解説にあります。
途中の島廻りでの太鼓唱歌の中に「爪米を 手に取り持ちて拝むには 四方の神が受けて喜ぶ」というのがありました。他の神楽との共通点をみたような気がしました。
以下に上沼加茂流法印神楽について当日リーフレットより書き出します。写真を交えて御覧ください。
「法印神楽は、仙台藩の北部(現岩手県南地域)に発祥したとみられ、大別すると二流派あり、一つは、三陸沿岸の気仙沼市や石巻市に広く分布する「浜神楽」と呼ばれる流派と、もう一つは、室町時代の康暦年間(1379~ 1381)瀧澤道胤から岩手県東磐井郡藤沢町西口(現一関市)にあつた不動院に伝えられた流派で「流神楽」と称される法印神楽があります。
上沼法印神楽は「流神楽」と呼ばれる神楽で、上沼八幡神社の所伝によると岩手県東磐井地方に発したとみられ、藤沢町西口から上沼八幡神社に伝承され、その後、享和年間(1801~ 1803)京都賀茂出身で東叡山(上野寛永寺)の楽人・峻學が東北地方巡視の折、上沼妙覚院 (白旗家)に滞在したとき、種々の神楽を伝承したのが「加茂流」と言い伝えられています。
江戸時代中期には、妙覺院を中心とした六カ院
旧上沼村妙覺院
旧桜場村八幡寺(清水家)
旧新井田村一乗院(新井家)
旧黒沼村黒沼寺(黒田家)
旧水越村長谷寺(春日家)
旧浅邊村三壽院(芳賀家)
の修験集団により神楽が演じられ、後年、神楽組に加わる法印も増え、往時は十三カ院を擁するに至り、
幕末まで盛んに行われてきました。
しかし、明治初年(1868)の神仏分離令や明治5年(1872)の修験道廃止令の発令に伴い修験院が解体され、法印たちも減少の一途を辿り、明治末年には神楽が演じられなくなりました。
こうした状況を憂慮した上沼、櫻庭、新井田、黒沼の法印達が中心となり神楽を再興させるため資本を拠出して、大正5年(1916)8月、仏式に傾いた神楽手続を神式に改め、表神楽十五番・裏神楽十五番・秘伝神楽三番併せて「三十三番」に組み立て、上沼八幡社の氏子に神楽を伝え現在に至っています。
なお、同系の神楽は、全国でも中田町の「上沼加茂流法印神楽」と「日高見流浅部法印神楽」の2団体のみとなっています。
上沼八幡神社に伝わる神楽本には
「修験道神楽抄〔文政4年(1821)〕」
「緒言(神楽三十三番手続)〔大正5年(1916)頃」
「加茂茂流神楽太鼓唱歌(江戸時代後期)」などのほか、大乗飾り(舞台飾り)を表した「神楽舞殿荘厳(1790年頃)」があり、また、最近発見された秘伝神楽を表した「陰陽寅巻深秘」の奥書には、寛永3年(1626)に記されたものを天明元年(1781)に書き改めたとあり、この神楽の起源は寛永年間(1624~ 1644)まで遡るものと思われます。
法印神楽の基本となる足踏みや手印などは、呪法に基づく型で極めて複雑な多くの様式を持ち、厳しい修錬を要します。
胴取は締太鼓の片面を打ちながら「神歌」を歌い、舞人は仮面をつけたまま「神談議」(かんなぎ)というセリフを声高に唱えることにより神話の筋立てが展開されて行きます。」
とあります。
動画でどうぞ。
祭データ 9月第2土曜日宵宮、同日曜日本祭 1時より神楽殿にて法印神楽の奉納
場所
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