奥山行山流餅田鹿踊
明日で8月も終わる。残暑厳しいながらも今年度も半分終わった。
さて、今日は昨日に引き続き金ケ崎夏祭りから奥山行山流餅田鹿踊を、といっても餅田鹿踊は江刺の踊組である。
由来については、
「岩手県民族芸能誌(森口本)」より
旧広瀬村鴨沢(江刺)の千葉繁吉を師匠として明治42年餅田の踊頭菊地甚三郎が指南を受け、44年免許皆伝。その後昭和5年に途絶えたが昭和31年に再興した。
とあるが、この昭和31年の再興に関して澤田定三が「岩手の郷土芸能」の中で当時のことを書き残している。
昭和三十一年九月八日、諏訪神社例祭の中日、小学校々庭での郷土芸能会が終り、帰宅してほっとしている処に、見なれぬ二人の訪間客があつた。名刺には東北電力岩谷堂変電所主任菅原郁夫氏と岩谷堂餅田振興会長佐藤武二郎氏の御両人であつた。そこで来意を伺つたところ、なんとうれしい限りの話しであつた。
餅田鹿踊は昭和初年以来、いつとはなしにかげをひそめ踊のおの字を一にするものさえなくなつた。
たまたま数年前これも同じ運命におかれた増沢部落の増沢踊が、老師七十七翁の高橋徳蔵氏の肝入りで立派に復興したことなども刺激の一つであろうが、それよりも菅野、佐藤の両氏は古来郷土に伝わる健全娯楽として、由緒ある鹿踊をこのまま埋もらすべきでないと、かつての踊関係の古老によびかけたり、若い人達を集めたりして再発足したというのであつた。なにをするにしても先き立つのは金で、まず両氏が多額の基金を出し合い、他は踊関係者で合計二十万の資金を投じ、装束から太鼓の全部を新調し、そしてその頭揃ろいの日をめざし連日猛練習をつづけているとか。何れは鑑賞する機会の近いことを願い、その日を楽しみに餅田鹿踊の復興を祝した。
そんなお陰で今日の姿がある。

中立の装束について。
咽印であるが、行山流山口派の常用である井桁に九曜紋であり、中立と雌鹿のみ赤色紋であるが、特筆すべきは最上段の五三の桐紋である。これは太鼓の調べ隠しにもついている。

袴紋は中立・雌鹿が雀紋で側鹿は源氏車となっている。
袖紋は中立・雌鹿が雀紋で側鹿は九曜紋。

後ろの長布の上には「奥山行上」と書かれた布が貼られてる。

この日は最後の方で祭り主催者のお花があげられ、投げ草が唄われた。

動画でどうぞ。
