虎舞の系譜
虎舞の系譜について、簡単であるが書いてみる。北から
★一つ目は旧南部領、宮古から八戸に伝播し、その後八戸藩内から二戸郡を通って軽米、岩手郡へと渡ったと思われるもの。釜石踊りを元とするものの次第に踊りも囃子もスローテンポになり、南部領内陸地方に至っては殆ど虎は踊らずにただ道行の中で厄払いと称して観衆の頭を噛む所作を行うのみの所もある。
八戸虎舞 文政年間に虎舞鮫村踊が三社祭りに参加と記録あり。二人立ちで肩乗り有り。相子の子どもが付く。現在、八戸市では「左比代虎舞」「十六日町虎舞」「柳町虎舞」「八戸市庁虎舞」「新井田虎舞」などが活動している。
名川虎舞
三百年前から、親虎と小虎をの二匹で舞い踊る。名称は上斗賀南部虎舞。二人立ちで先舞はササラ摺り
軽米虎舞
二人立ちで相子の子どもが唐団扇にでんでん太鼓を持ち、ゆっくりと踊る。囃子は笛、小太鼓、鉦。
★山田~宮古地方
山田の境田虎舞釜石虎舞からと伝書にあるが、随所に独自の工夫があり、太鼓の囃子は独特のものがある。
大浦虎舞 元禄12年に尾崎神社遥拝殿建立祝いに奉納されたとある。釜石踊りとは別という口伝があり、天保以前に江戸、長崎あたりからの直接移入とのことだが。二人立ちでササラ摺り1人、槍使い2人、和藤内が付く。
大沢虎舞 250年前の江戸中期、豪商吉里吉里善兵衛の廻船の船方として大沢村の衆が江戸で見聞した歌舞伎や祭りの太鼓囃子を覚えて持ち帰ったとされている。大槌釜石虎舞のルーツとも言われいている。
因みに吉里吉里善兵衛こと前川善兵衛の出自はその祖である清水富英の領地、相模国前川邑からきている。
★以上の踊りのルーツと思われる遠州・相州の虎舞
浦賀の虎踊 疱瘡神といわれる為朝神社に奉納する虎舞で享保5年に奉行所が伊豆下田から浦賀に移転した折に同行したものといわれる。
小稲の虎舞 天明年間(1781)からとの口伝がある。ここの太鼓台(山車)は釜石大槌の山車の原型ともとれる。
釜石大槌については後日に続く(かも?)
