上幅庭田植踊 郷土芸能の祭典
本日は平泉の達谷西光寺では毘沙門のお正月ということなそうです。
これからは大黒様やら稲荷、山ノ神やらの神様たちのお年取りが続きます。
さて、郷土芸能の祭典から今日は上幅庭田植踊であるが
ここの田植踊りの由来は水沢市教育委員会篇「無形文化財保存記録集 2 」から抜粋
「松本市治氏からの間き取りによれば、「語り伝えでは、今から七三〇年前(弘長二年)この庭田植踊を掃部長者に見せたところが、ここの『田植つこ』は他所の田植っこと違って、『めでためでた 」で踊つて入つて来るのが大変良いということで、一番の折紙をつけられ、それを誇りにして今迄踊り伝え、継承されてきたということです。ただ、どこから入つてきて、誰が始めたかなどということはわからない高山掃部長者は、何せここの地元だから、それにくっ付けてるんでしょう」ということで、伝書、文書類は一切残っていない。」
が、弘長二年(1262年)掃部長者に田植踊りを上覧したのではと推測されているとのことだが。
それはさておき、いわゆる胆沢型の庭田植えである。踊り手は奴及び羯鼓と進行役に杁摺・弥十郎が入り、囃子方は太鼓に歌揚げの構成である。
ここの踊り組は、太平洋戦争までは男だけで構成されたということだが、戦後十数年の中断期間を経て女性だけで復活がなされた。だから女庭田植踊とも呼ばれた。
この踊り組は正月以降に「つりはり」といって踊組の親戚(いどし)宅を回って歩くのだが、踊り組は総勢20名ほどになり、招いた家では踊組の人々に餅や酒やご祝儀を出さねばならなかったため「庭田植はいどし(親戚)泣かせ」と言われた。
また、小正月になれば「餅の晩」といって15,16,17日の3日続けて部落内をカセドリをして歩いたともいうが今は行われていない。
下の画像は中入り余興の「苗代ならし」である。
古老の話によると、昔は「あぶら虫」といって、踊りはしないが田植踊に付き添ってあるき、支度の手伝いや歌揚げの加勢、それに中入りの口上や万才をしたという。
他にレジャーの無い時代なのでとにかく皆が田植踊を楽しんでいたということだ。
奴踊りの袢纏の背中に入梅の紋が入っています。入梅は暦の上では芒種の後の最初の壬〔みずのえ〕の日であり、陰陽五行説で「壬は水の気の強い性格」とされており、水と縁がある日ということで稲作にとって大事な水の恵を祈願しているしるしといえます。
この日の演目は、
入込、朝はか、ひるし引き、つんばくら、米つき節、小糠飛ばし、お蔵納め、中入り(口上、苗代ならし、手踊)草刈り節、夕暮れ節 です。
次の動画では、朝はか、中入りの口上と苗代ならし、草刈り節、夕暮れ節をダイジェストでまとめました。
特に中入りの苗代ならしは胆沢地方の方言で語られているのでわかりづらいと思いますが、苗代作業の農夫とその嬶(孕婦)の万才形式になっており予祝芸能としての性格が見て取れます。
