一関の小猪岡豊年田植踊りについて
田植踊りの比較が続いてるので、一関の小猪岡豊年田植踊りについて書いてみる。
これは平成23年3月6日に一関市民俗芸能祭で上演されたものである。
(話変わるが、この日の5日後に東日本大震災が襲来し、以後5月になるまで私の追っかけもしばらく休止となっていた。あれからもう8ヶ月になろうとしているが・・・)
11月4日のブログでも書いたように、菅江真澄がかすむ駒形の中で道化について記述している。
「そが中に、瓠(ナリヒサゴ)を割て目鼻をえりて白粉塗て仮面として、是をかがふりたる男も出まじり戯れて躍り、此事はつれば酒飲せ、ものくはせて、銭米扇など折敷にのせて、けふの祝言とて田植踊等にくれけり。」
ここで書かれた道化とはどんな役回りであったかは不明だが、戯れて躍りということが、この小猪岡豊年田植踊りの場合は実によく彷彿とさせている。
「仙台田植え」という演目の中で、早乙女の踊りの列に闖入した道化が、早乙女一人ひとりにチョッカイを出して歩くというものである。その両手には小さな手平鉦を持ち、叩いて囃しながら軽妙に踊る。
小猪岡豊年田植踊りでは、弥十郎のことを太夫、道化のことを才蔵と呼んでいる。
また、同じ一関市の山谷田植踊では才蔵のことを苗ぶつとも言っているがこれはエンブリの役回りを意味してのことであろうか。
いずれ、この才蔵はおどけているが踊り達者な者と窺えるので、南部藩領内での田植踊りの一八や遠野の種瓢と同じ立場(踊組の長老的な存在)といえるかもしれない。
それと、この才蔵の衣装の背中の紋であるが、「波に蛸」である。
「波に兎」ならともかく内陸部の芸能なのにどうしたことか。
しかし、江戸時代の「仙台年中行事大意」によれば、当時仙台城下には大田植と称する田植踊りがあり、大田植えには三組ばかりの系統らしいのがあって、一つは蕪組といって衣装に蕪の紋をつけていたといい、他の二組には蟹と海老の紋が付き、蟹組、海老組といっていた。(菊地和博氏「胆沢郡徳岡田植踊」と豊作祈願芸能より引用)
といったことも背景にあっての「蛸」であるのかもしれない。(後で聞いてみよう)
動画では仙台田植えの部分をダイジェストにしてます。才蔵の動きにご注目。
