秋保の田植え踊り
本日、秋保・里センターへ秋保田植え踊りを見に行ってきた。
昨日ブログの都鳥田植踊は庭田植えでしたが、こちらは座敷田植えとなります。
解説はパンフレットより
◆秋保の田植踊
目指定重要無形民俗文化財(昭和51年5月4日指定)
ユネス事無形文化遺産(平成21年9月30日登録)
田植踊は、その年の豊穣を祈る予祝の芸能で、神事の田遊び芸のうち早乙女踊が風流化し、特に華やかに仕組まれたものです。旧藩時代から昭和初期あたりまでは小正月を中心に、集落毎の田植踊組が相互に招待しあったり、仙台城下に繰り出して大勢で踊るなど、この時期は毎日のように全村挙けて田植踊に明け暮れていたようです。
秋保に伝わる田植踊は、長袋に落ち延びた平家の落人たちが昔日を慕って始めたと言われ、その構成は大規模なもので総勢50~ 60人からの構成で、多いときは100人を超えたとも言われています。かつては秋保の各集落にも田植踊がありましたが、現在も活動を続けているのは「秋保の田植踊」と総称される湯元、長袋、馬場の田植踊の3つのみとなっています。
とあります。
で、この日は湯元と長袋の二組が上演しましたので、今日は湯元の田植踊りについて掲載します。
これは「鈴田植」という演目
同じくパンフより湯元田植踊りについて以下引用
秋保温泉に祀られている薬師堂に奉納した五穀豊穣祈願の手踊りがはじまりと言われています。その後、湯治場のにぎわいに誘われて全国より集まった東下りの旅芸人や、慈覚大師によって開かれた修験の道場を訪れる法印山伏の太平楽などの影響を受け、今日の12種類の踊りが工夫されたようです。現在は、毎年5月5日に開催されている薬師堂の子育薬師祭において奉納されています。
とあります。
弥十郎2人がつきますが、上着(ブッツァキ)の背中には蕪紋が入ります。
菊地和博氏のレポートには、江戸時代の十返舎一九による「方言修行金草鞋」の中に「本宮宿」という場面があり、そこに「屋ん十郎」の姿が描かれており、蕪紋の前掛けを付けているとのこと。本宮宿は現在の福島県本宮市であり伝播が想起される。
弥十郎の演目口上で進んでいく。
ところで、下の画像は採物のひとつて銭太鼓である。実際に一文銭が使用されているという。
菅江真澄の「かすむ駒形」に描かれた徳岡の田植踊りについての記述では「銭太鼓とて、檜曲に糸を十文字に引渡し、その糸に銭を貫いて是をふり」とあるが、それを彷彿とさせる。
演目にも「銭太鼓」というものもある。
この後、中入りのような「褒め言葉、返し言葉」を客席内と踊りの場で応答され、最後の演目「はね太鼓」となる。
これは、それまで大太鼓役が叩いていた太鼓を持ち上げ、早乙女が綾棒を手に踊りながら太鼓を順に叩くというものである。
動画は弥十郎の口上から「入羽」と「はね太鼓」の部分をダイジェストにしました。
